シルクロードに関する多彩なトピックを、貴重書アーカイブの資料を織り交ぜつつ、北京大学・考古文博学院の林梅村教授を中心とするシルクロード研究者に紹介していただきます。

中国のミケランジェロ―楊恵之考―

孫瑩瑩 (北京大学中文系修士課程)

ミケランジェロ(Michelangelo,1475-1564)はイタリアルネサンス期の彫刻の巨匠であり、西洋では最上の位置づけがなされ、誰もが知る存在である。古代の東洋にも決して彫刻の巨匠がいなかったわけではないが、彫刻家は往々にして職人のやからとみなされたために、文人墨客にせよ官修の史書にせよ、敢えて取り上げるに値せずとしたのである。中国彫刻史上にミケランジェロと肩を並べるような芸術の大家は少なくないが、まず挙げられるのは「画聖」呉道子と名声を等しくする唐代の「塑聖」楊恵之であろう。

「塑聖」とよばれる楊恵之ではあるが、その境遇はミケランジェロに比べると天と地ほどの開きがある。楊恵之に関する文献の記述はあまりに簡単にすぎて、今に至るまで生没年すら確かではない。幸い、『歴代名画補遺』には彼と呉道子が同時期に張僧繇に私淑した画友であり、巧みな芸はともに著れたと記している。後に独り呉道子の名声が大いに響きわたるようになり、憤った恵之は画の道を捨て、彫刻に転向した。また『唐語林』に「道子の画、恵之の塑は、僧繇の神筆の路を奪い得たり」という。以上から楊恵之が盛唐期の人であり、唐開元年間に活躍したことが知られる。彼の本籍は明らかでなく、後世の文献にいわれることも大抵はあてにならない。楊恵之の彫刻作品は文献記録には屡々見られるものの、千年を経た今日には跡形もなく消え失せている。梁思成も楊恵之の作品については断片的な記述から概説することしかできなかった[1]。楊恵之には『塑訣』一巻の著作があるが、これもまた今には伝わっていない。一代の彫刻の巨匠がこのように史籍から消え去ってしまったのは全く惜しいことである。

我々が今日唐代の彫刻を目にすることができるのは、考古学的発見、わけてもシルクロードの考古学的発見の賜物である。本稿では、唐代の考古遺物にみられる彫塑作品や同じ題材の作品の助けを借りて楊恵之作品の本来の姿を推察し、楊恵之に代表される盛唐芸術の様相を示してみたい。楊恵之の作品はおもに両京、鳳翔、湖南、江蘇などの地域にあったというが、以下のごとくそれぞれ述べていきたい。

一、両京、鳳翔などの地域

盛唐期の「首席」彫刻家として、両京や鳳翔などの地は自ずと楊恵之の主要な活動地域であり、この部分に関する史料の信用度は比較的高い。楊恵之がこの地域で創作した作品には京兆(今の陝西省西安)長楽郷太華観玉皇像、京兆府(今の陝西省西安)留杯亭像、陝西臨潼(今の陝西省臨潼県)驪山福厳寺塑像、汴州(今の河南省開封)安業寺(唐睿宗延和元年七月二十七日に名を相国寺と改める、また大相国寺ともいう)大殿内の仏像・枝条千仏像・二護法神と維摩居士像、洛陽(今の河南省洛陽)広愛寺羅漢及び楞伽山、西京(今の陝西省西安)千福寺涅槃鬼神、洛陽(今の河南省洛陽)玄元観の神仙泥塑像、鳳翔県(今の陝西省鳳翔県)天柱寺維摩像などがある。日本の学者、大村西崖の考証によれば、西京千福寺の涅槃鬼神は楊恵之が描いた壁画で、その他はみな彫塑作品である。

楊恵之が西安の太華観で創作した玉皇の塑像は、宋代にも依然としてみなが争って模倣する手本であった。劉道醇の『宗朝名画評』によると、時の皇帝が玉清昭応宮内で玉皇像を装飾しようとしたが、大勢の画工の創意はいずれも皇帝の意にかなわなかった。しかも『道蔵』などの文献も玉皇の装飾について記しておらず、誰も打つ手がなくなった時に、画工の龍章が、「太華観に唐の楊恵之がつくった玉皇像が今なお残っているが、これを模倣してみてはどうか」と提案して、その場のもめ事はようやく解決した。太華観の玉皇像は、身には九色の螭文の羅(うすぎぬ)の帔(かたかけ)をまとい、たいへん精巧で美しかったという。

西京の留杯亭像は、楊恵之が創作した唯一の普通の人物をかたどった塑像である。留杯亭は盛唐期の非常に有名な役者であった。留杯亭の泥塑像は完成した日に市の中心に立てられたが、人々は後から一目見ただけで留杯亭その人であることがわかったという。

楊恵之が洛陽広愛寺で創作した楞伽山の彫塑については、宋人の詩や詞にみえる。蘇軾『東坡全集』巻五に「広愛寺を過ぎ、三学演師が楊恵之塑の宝山、朱瑶画の文殊普賢を観ずるを見る」三首、蘇轍『欒城集』巻四に「将に洛城を出でんとせるに広愛寺を過ぎて三学演師が楊恵之塑の宝山と朱瑶画の文殊普賢を引観せるを見る」三首がある。詩題にいう宝山がすなわち楞伽山であり、おそらくは塑壁の技法で壁面に山岳の形を塑で盛りあげ、人物や台閣をそこかしこに置いて渾然一体にしたものであろう。この技法は楊恵之が創始したもので、後の人がこれを「影塑」の技法に発展させたと伝えられる。敦煌莫高窟は岩質が彫刻にむかないため、造像は泥塑や壁画が主になっている。全ての窟において前方には一般に丸彫り像を置き、後方にいくにしたがって高浮き彫り、浮き彫り、壁塑となって、最終的には壁画が背景になる。つまり、泥塑と壁画の二通りの芸術形式が融合して一体となっているのである。

『五代名画補遺』中に広愛寺の五百羅漢像は楊恵之が刻したとあることについては、これまでずっと疑問視されてきている。唐代の羅漢像は、最も多くても『益州名画録』に記す四川成都大慈恩寺の「行道羅漢六十余躯」がせいぜいである。蘇軾や蘇轍の詩では、楊恵之の塑の宝山について詠まれるだけで、羅漢には言及していない。二蘇の才学をもってして、宝山を知っていながら羅漢について知らないというようなことがあるだろうか?ここにいう五百羅漢とは、劉道醇が誤って伝え聞いたか、誇張した疑いがある。

(図 1)

意外なことに、唐代の羅漢像はトゥルファンでの考古学的発見にその証左がある。ドイツの学者ル・コック(A.von Le Coq)はトゥルファンの前山で羅漢絹画残片一件を発掘した。高さ21㎝、幅45㎝、年代は唐代と断じられている[2]。また、スタイン(Mark Aurel Stein)・コレクションの中には、敦煌莫高窟で発見された中唐期の羅漢像(図 1)がある。彫刻では、莫高窟では迦葉像と阿難像の造像例が一般的で、第45窟のように多くは釈迦の両側に対を成して、他の菩薩像とほぼ同じ高さにつくられている。

洛陽の玄元観は唐の開元二十九(741)年に建てられ、天保元(742)年に玄宗が勅を下して玄元皇帝老子に新しい廟を奉った。いわゆる新廟は、実際は上清宮の址に建て直したものである。老子は木の牌ではなく、太白山石の彫像であり、頭に冕旒を戴き、身には袞袍を着て、厳粛にして荘重であった。左側には文宣王孔子と、道教の真人四尊――庄子、文子、列子、庚桑子――の石彫像を配し、右側には唐の玄宗と宰相の李林甫の石彫像を配した。伝えるところによると、これらの像はみな朱衣の朝服をきて、真に迫ることは生けるが如くであったという。

(図 2) (図 3)

維摩詰像は中原地区に伝わって久しく、すでに東晋の顧愷之が維摩像を描いている。おそらく、維摩詰は大抵は名士の装いであらわされるため、両晋南北朝の人々が尊重した「名教を越え、自然に任す」という気風に合致し、芸術家に偏愛されるところとなり、絶えることなく伝えられていったのであろう。今日、敦煌莫高窟・雲崗石窟・龍門石窟のいずれにも維摩詰をあらわした芸術作品をみることができる(敦煌莫高窟第335窟維摩詰経変壁画(初唐)(図 2)維摩詰部分(図 3))。楊恵之が創作した塑像のうち、維摩詰像は河南開封の大相国寺と陝西鳳翔の天柱寺の二カ所にそれぞれ作られている。『東坡全集』巻一に、「維摩像、唐の楊恵之天柱寺に在りて塑せり」と記載する。宋の劉攽『彭城集』巻一六には「原父(訳註:劉攽の兄、劉敞)と江鄰幾とともに浄土院(訳注:相国寺浄土院)を過(よぎ)り、古殿に呉道子の画、楊恵之の塑像及び顕僧の伝える当世の貴人の形骨、仁僧の鼓琴を観て作る」とあり、明の李濂輯『汴京遺迹志』巻二十一に引く梅堯臣『汴渠詩』の注に「劉原甫(訳注:劉敞)、相国寺浄土の楊恵之の塑像、呉道子の画を観る」とある。上に引いた文献は塑像の具体的な題材について触れていないが、中国の文人が最も敬愛したのが風雅な名士、維摩詰であったのは至極当然のことである。

二、湖南、江蘇などの地

ある記録によると、楊恵之の作品は郴県(今の湖南省郴県)通恵禅師院の九子母像、江蘇昆山(今の江蘇省昆山県)慧聚寺の毘沙門天王像、千手観音塑像がのこっていたという。しかし、顧頡剛は楊恵之は生涯長江を渡ったことはないという見解を示しており[3]、これらの作品は本当に楊恵之が作ったものであるかどうか、今のところは断定できない。

東晋以後、世に言う「九子母」とはすなわち仏教の鬼子母神を指しており、或いは訶梨帝母ともいう。趙邦彦が詳細な考察を行っているので[4]、ここでは贅言せず、盛唐期の鬼子母神の美術表現についてのみ論じていきたい。四川巴中石窟に九子母龕があるが、九子母は一般的な婦人の装いをして懐に赤子一人を抱いており、あとの八子は両側にあつまって座っている。1905年、ドイツ考古隊のル・コックは、トゥルファンの交河故城の某寺で一幅の彩画訶梨帝母像(図 4)を収集した。絵の年代は9世紀以前と思われる。画中の鬼子母神は胡服をまとい、一人の赤子に乳を飲ませているところで、あとの八子は両側にならび、スティックをもって遊び戯れるもの、果物を盛るもの、胡琴を弄ぶもの、瓶を頭上にのせるもの、くつろぐものなどがいる。

(図 4)

おおむね明らかなのは、唐人の考える九子母像とは鬼子母神とその九子であり、地域によって服飾は異なり、動作にもいくらか違いがあるということである。楊恵之は主に両京地域で活動していたが、もしも楊恵之が塑した九子母像が今日の湖南にもあったのだとしたら、その九子母像の様子には楚地の土地柄があらわれていたはずである。張舜民の『画墁集』には、楊恵之が塑した九子母像は「地より坐立し、床具を以いず」という姿であったと記されているので、或いは四川巴中石窟の九子母像と似ていたのかもしれない。トゥルファンの彩画の彩色については混じりけのない色だけを用い、華美ではない。

慧聚寺の毘沙門天像は『呉郡志』と『中呉紀聞』等の文献にみられ、学者の多くは楊恵之の作と認めるが、顧頡剛はこれを大いに疑わしいとする。第一に、文献は決して慧聚寺の毘沙門天王像の作者が楊恵之であることを肯定しているわけではない。第二に、慧聚寺の年代は楊恵之の生きた年代を去ること百年の隔たりがある。第三に、楊恵之が芸術創作を行った場所の大部分は両京や鳳翔などの地域である。以上の三点から、慧聚寺の毘沙門天王像の作者は楊恵之ではありえないという。顧氏はさらにもう一歩踏みこんで、保聖寺像が楊恵之の作であるとする論争されて久しい説について、まさしく昆山伝説の移植であるという。しかし天王像は唐代に大変流行しており、唐代の墓葬では鎮墓獣としてよく用いられている。北京大学芸術系の李淞の唐代龍門石窟における天王造像に関する考察によると、唐玄宗期までに天王像は標準化され、多くは「等身像」であるかそれより小さく、尺度の上では菩薩と等しい大きさに、特性の上ではしだいに典雅に、精緻になった(莫高窟第45窟唐代毘沙門天塑像(図 5)莫高窟第265窟天王像(図 6)[5]。以上から、仮に慧聚寺の天王像はもともと楊恵之が造ったものではないとしても、唐代の天王を尊ぶ雰囲気の中にあって彼がこの種の作品を創作した可能性も否定できない。

(図 5) (図 6)

宋の黄震の『黄氏日鈔』巻六十五にも、「楊恵之は塑工を以て天下に妙なり、八万四千手観音は措手ならず、故に千手眼を作れり。今の作は皆恵之を祖とせり。」という。イギリスのスタインは敦煌蔵経洞(莫高窟第17窟)で、かつて一幅の(盛唐期の千手千眼観音画像(図 7))を収集した。これは今、ニューデリーのインド国立博物館に収蔵されている。

(図 7)

漢訳仏典の中では、千手千眼観音経類の最古の訳は初唐になされている。智通法師は貞観年間に二巻本の『千手千眼観世音菩薩陀羅尼神咒経』を訳出しており、経の序文には武則天が宮女に千手千眼観音を刺繍させ、画工には千手千眼観音像を描かせて天下に流布せしめたことがはっきりと記されている。この他にも、唐初に于闐の画師、尉遅乙僧が千手千眼観音像を描いており、朱景玄の『唐朝名画録』にこれを評して「其の精妙の状、名づくべからず」という。このような状況からみて、楊恵之が開元年間に創作した千手千眼観音の彫像を後の人が争って模倣するようになったということはいかにもあり得ることである。

[1] 梁思成『中国彫塑史』(天津、百花文芸出版社、1997年重印本)146-147頁。
[2] Albert von Le Coq, Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien, VII, Leipzig, 1933. pl.33.
[3] 顧頡剛「為楊恵之塑像問題陳従周君所絵『甪直閑吟図』」(『中国歴史文献研究集刊』第1集、長沙、湖南人民出版社、1980年、192頁)。
[4] 趙邦彦「九子母考」(『中国歴史語言研究所集刊』第二冊第三分、民国二十四(1935)年)261-273頁。
[5] 李淞「龍門石窟唐代天王造像考察」(『長安芸術与宗教文明』、北京、中華書局、2002年)315-316頁。
2006年12月28日 発行
翻訳: 森 美智代
編集: 大西 磨希子

目次

執筆者

1984年1月27日江西省萍郷に生まれる。2001年北京大学元培計画実験班に入学、のちに中文系古典文献専業を選択。2005年北京大学中文系古典文献専業修士課程に入学、現在も在籍中。 [ もっと詳しく... ]

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