『"古都ホレズムは中央アジアのエジプトである" ― 人類の文明を探求し続けてきた考古学者らは、古代ホレズムの研究を通じ、偉大な結論に辿り着いた。彼らはホレズムの文化・芸術・歴史は中央アジアの発展に密接に関係していることを証明したのである。』 <ソ連の民族学者 S.P.トルストフ>
地理的にホレズムという地域はアラル海の南東、アムダリヤ川下流の両岸と、イラン北東部付近一帯を指します。また、アラル海の南西部にある乾燥したウスティユルト高原の南側地域と、アムダリヤ川とシルダリヤ川に挟まれた地域も含みます。現代ではウズベキスタン共和国内にあたり、古くはシルクロード上の重要な地域であったところです。
ホレズムという名称はアヴェスタと呼ばれるゾロアスター教の経典の中で記述されています。アヴェスタには当時、イラン東部と中央アジアには経済格差のある階級社会が存在していたこと、また、国家を形成していた聖職者、軍人、農夫、職人、奴隷らについても詳細に記されています。また“アリアナム・バイジャ”の地で起こった物語が翻訳されており、権威あるホレズムの科学者によって立証されています。
11~13世紀のホレズム帝国にはパルティア(カスピ海南東部、イラン高原東北部)、メルブ(トルクメニスタン)、ソグディアナ(ウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州)、ホレズム(ウズベキスタン西部)が含まれていました。
中央アジアで最初の国家は、紀元前9〜8世紀頃にアラル海南部のバクトリア地域で発展しました。
ホレズムは、紀元前6世紀に王国として発展しバクトリアとホレズムは、アムダリヤ川河口において、開拓地を共有していました。
乾燥したホレズム地方での最初の灌漑工事が紀元前6-5世紀頃から始まったと言われています。住民は、主に村では農夫、都市では職人と貿易商で占められていましたが、遺跡の発掘により科学者の存在も確認されています。
ホレズム人は天文学、数学において高い知識を持っており、角度を測定する道具を発明し、それらを科学の研究に使用していました。天文学と多くの自然科学は、古代ホレズムで発展し、使用された道具は今日まで残されています。
ホレズムにおけるこれらの道具の一部や文化遺産は、アムダリヤ川の数キロ北に位置するコイキリガン・カラ遺跡に見ることができます。
ホレズム地方における建築は紀元前4世紀頃から始まります。要塞は君主の埋葬地としてだけでなく、天文学の研究用に観測所としても利用されました。また、要塞跡からは、紀元後3世紀までホレズムの人々が暦に利用していたと思われる興味深い文書も発見されています。
さらにホレズム人は、トルコとの貿易での利益を独占し、特にホラーサーン地域(イラン北東部~アフガニスタン。古代パルティア帝国の発祥地。)における代表的な商人でした。実際、ホラーサーン地域の全ての街で、現代のホレズムでは見られない、高い毛皮の帽子をかぶった、明らかに地元の民とは違う人々が数多く行き交っていたそうです。
ホレズムは紀元前6世紀から紀元後19世紀まで、長きに渡り中央アジアにおける商業、政治、文化の発展において最も重要な地域のひとつでした。
イラン、インドにとって、シルクロードにおけるホレズムは地理的に非常に重要であり、多くの文化間、国家間で、活発な交流が築かれました。それゆえに商人、職人、科学者、建築家たちとっても、ホラズムを非常に重要な地域だったのです。
シルクロードは単にキャラバンの交易路として機能してきただけでなく、中央アジアの文明発展に寄与してきたのです。
ムハンマド・ラヒムハーン2世は、1844年、サイッド・ムハンマド・ハーンの長男としてヒヴァに生まれました。王子は幼少期には王宮の教師らの教育を受け、その後、ヒヴァの中でも権威あるメドレセ(学校)で学びました。
彼は、トルコ語、ペルシア語も堪能であったと言われています。さらに、灌漑の技術者、詩人、歴史学者でもある、アギャーヒーの教えを受けます。
1864年、ムハンマド・ラヒム王子は19歳でヒヴァ・ハーン国の王位につきます。民衆は、彼が定めた規律や、彼の統治時代の、文化・社会生活、そして自由に歓喜しました。特に19世紀後半までロシアの勢力に対し、ヒヴァ・ハーン国の独立を保ち続けたことは、民衆の尊敬を集めました。また彼は支配者としてだけでなく、卓越した音楽家、詩人でもあり、「フェルズ」の名で作品を残しています。
1870年には、ヒヴァは、ムハンマド・ラヒムハーン2世の統治により財政的に安定し発展を遂げていました。国内には大小様々な工場、職人の作業場があり、それぞれがバザールの中で市場を開いていました。さらにペルシアやロシアなど、外国に対し工芸品を輸出していました。
しかし37年に及ぶ彼の統治後、ヒヴァ・ハーン国はロシア帝国に併合され、その保護下に置かれました。彼は、奴隷の売買や民族紛争などからヒヴァを守るため、国家の安定に尽力したのです。
1874年にロシア帝国により押収された王宮図書館を復興するため、ムハンマド・ラヒムハーン2世は中央アジアにおける最初の印刷所が建設を命じます。 さらに、国内の写真や映画の発展のため、中央アジアで最初の写真家とされるフダイベルゲン・デバノフにも援助の手を差し伸べました。
1898年、彼は美術品として展示出来るあらゆる物を収集し、ヒヴァで初めての美術館を開きます。彼の美術品は世界中で展示され、1890年にはタシケントで、1895年にはニジニ・ノヴゴロド(ロシア)で、1900年にはパリで、さらに1904年にはアメリカ・ミズーリ州で展示されました。
1910年、66歳でムハンマド・ラヒムハーン2世はその生涯を終えました。
イスラム・ホジャは、1879年に王室のイブラヒム・ホジャ家に次男として生まれました。家庭教師により基礎教育を受け、ヒヴァのメドレセ(学校)に進学します。父親がヒヴァ・ハーン国の首相となった後、家族はヒヴァに移り住み、彼は王宮でハーン王室の子供たちと教育を受け続けます。
1889年、父のイブラヒム・ホジャが亡くなった際、彼は15歳ですでに税務署の責任者として働いており、その後は10年間にわたって州知事を務め、その指導力は多くの民衆の支持を得ました。
イスラム・ホジャは、1898年26歳の時、サイード・アブドゥラ・ホジャ首相亡き後の後継として首相になるよう、ムハンマド・ラヒム・ハーン2世の命を受けます。
イスラム・ホジャは、ロシアを訪れ(1903、1907、1911、1913)、自国の立て直しを始めました。国内最初の近代的な学校や病院、電報の普及など、改革の陣頭指揮をとり、銀行、郵便、鉄道も導入しました。
彼の成し遂げた近代化の努力は、今なおヒヴァの人々の尊敬を集めています。