建築物の今昔写真比較
 カルタ・ミナール
1873年 G.クリブツォフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

精巧で美しい青と緑のタイルに覆われ、かつ未完成であることから、この太めのカルタミナールという塔はヒヴァを象徴する建造物となっている。ムハンマド・アミン・ハーンの命により建設が進められていたが、1853年のペルシア遠征中のハーンの死により建造は突然中断され、その後、完成することはなかった。

完成時には約80mの塔になる予定であったが、高さ26m、直径14mの基礎部分だけが残ることになった。白、青、緑、濃い黄色の光り輝くタイル装飾による様々な文様は見事に調和している。ヒヴァでは、別名「ウリ・ミナール(高い塔)」または「コク・ミナ-ル(青い塔)」とも呼ばれてきた。

【ムハンマド・ラヒム・ハーン メドレセの屋上より撮影】

 キョフナ・アルク
1873年 G.クリブツォフ 撮影2012年 秋野深 撮影

キョフナ・アルクはヒヴァの古宮にあたる建造物で、今日残されているものは19世紀のものである。かつての宮殿内には、ハーンの住居、最高裁判所、火薬工場、武器庫、造幣所、ハーンの応接の間、夏・冬用のモスク、ハーレム、厨房、衛兵詰所、儀式用の広場などいくつもの建物があった。

イチャンカラの東側にアラクリ・ハーンが新宮殿を建設した後、キョフナ・アルクは古宮と呼ばれるようになった。

キョフナ・アルクは高い城壁に囲まれている上、イチャンカラの西側城壁に隣接しているため、まさに”城砦の中の城砦”である。敷地は123m x 93mの長方形で面積は約1ヘクタール。唯一の入口は東側の城壁にある。

敷地の北側に位置していたとされるハーンの家族(王家)が利用した宮殿とハーレムは、現在は残されていないものの、ハーンの応接の間、夏・冬用のモスク、造幣所、ハーレムなど現存する建物から、宮殿の構造をうかがい知ることができる。

1804年のヒヴァの再建時にキョフナアルクも修復され、主にユスフ・メクタル首相の下で行われた。

その後アラクリ・ハーンの統治時代(1825-1842)にも再修復され、その際、著名な建築家・陶芸家のアブドゥラ・ジンによる伝統的なマヨリカタイルで装飾が施された。

1855年の動乱により応接の間が破壊されたが、1864年サイード・ムハンマド・ハーンにより再建された。

【ムハンマド・ラヒム・ハーン メドレセの屋上より撮影】

 キョフナ・アルクの夏用モスク
1878年 M.サベンコフ 撮影2012年 秋野深 撮影

古宮キョフナ・アルク内の南側に1838年に建造された夏用のモスク。

【中庭の城壁上より撮影】

 ムハンマド・ラヒム・ハーン メドレセ
1935年 フダイベルゲン・デバノフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

ムハンマド・ラヒム・ハーン メドレセは、イチャンカラの中央広場をはさんでキョフナ・アルクと反対側に、1871年ムハンマド・ラヒムの命により建造されたメドレセ(=学校)である。建物の名は19世紀後半にイギリスとロシアの侵攻に対しヒヴァ・ハーン国の独立をどうにか維持したムハンマド・ラヒム・ハーンの名にちなんだものである。

内部には156名の学生のための76のフジュラ(宿坊)がある。

1994年の修復を経て、現在は歴史文学博物館となっている。

【キョフナ・アルクの門前より撮影】

 金曜モスクとミナレット
1920年 フダイベルゲン・デバノフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

金曜モスクとミナレットの北側の景観。古写真には、ファジルビーモスク、ドスタラムモスク、アラブハーンメドレセの一部や、住宅も写されている。

1000年の歴史を持つと言われる金曜モスクはヒヴァで最も権威あるモスクとされ、ヒヴァの城壁内の中心部かつメインストリート沿いに位置している。また、アラブの旅行家アル・マクディシーとアル・イスタルヒーの2人は、ヒヴァの金曜モスクは10世紀の中央アジアのモスクとしては当時最大規模のものであったと記述している。

現在のモスクとミナレットは18世紀に修復されたもので、ミナレットの高さは47m。モスク内の213本の美しい木彫りの柱は、今日もなお訪れる者を魅了し続けている。

【ドスタラム メドレセの屋上より撮影】

 マタニヤズ・ディワンベギ メドレセ
1873年 G.クリブツォフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

マタニヤズ・ディワンベギ メドレセは1871年、ヒヴァのハーン(王)であったマタニヤズ・ディワンベギの財務大臣の命によって建造された神学校。

【ムハンマド・アミンハーン メドレセの屋上より撮影】

 ロシア系の学校校舎
1930年 フダイベルゲン・デバノフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

校舎は元々1910年にヒヴァハーン国の革新的な首相の命によって建造されたが、その後、モスクワとサンクトペテルブルクを訪れたカミール・ミルザバシ(ヒヴァハーン国の政権の長官)の時代に、ロシアの教育制度を導入した最初の学校が開設された。

建物は2つの廊下と8つの教室を持ち部分的にヨーロッパスタイルで建造されていた。

最初に教師を務めたフサイン・フシャエフとカミーラ・フシャエバは、ロシア語、母国語、地理、ヒヴァの歴史、家庭生活の科目を教えていたと言われている。ロシア革命の後、1920年にヒヴァで最初のソビエト系制度の学校に移行した。

現在の建物は、ヒヴァで最初の写真家であるフダイベルゲン・デバノフの作品や機材などを展示した博物館となっている。

【イスラムホジャミナレットへの階段上より撮影】

 イチャンカラの西側城壁
1878年 M.サベンコフ 撮影2012年 秋野深 撮影

ディシャンカラの職人通り、アクシェイフババの高台、古宮キョフナアルクの景観。城壁はイチャンカラと呼ばれるヒヴァの内城壁の西側部分。考古学者によれば、イチャンカラの最初の城壁の建造は紀元前4世紀に遡るとされている。その後、何度も破壊され、現在残る長さ2200mの城壁は、19世紀に建造されたものを修復したものである。

【西門前の住宅2階より撮影】

 カザラスプ・ダルバザ(門)
1930年 フダイベルゲン・デバノフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

アラクリ・ハーンの命により1842年のディシャンカラ(外城壁)建造の際に、焼成レンガで建造された門。かつては2つの監視塔と複数の事務室があった。ホレズム地方のガザラスプ地域向きの門であることからその名がつけられた。

【門の内城側の広場より撮影】

 コシャ・ダルバザ(門)
1932年 フダイベルゲン・デバノフ 撮影 2011年 秋野深 撮影

ディシャンカラ(外城壁)のウルゲンチ門が破壊された後、20世紀初頭に北門(ディシャンカラの正門)として建造された。1912年、イスファンディヤル・ハーンの命を受けた著名な建築家ルズマット・アルバブによるものである。

【門の内城側の広場より撮影】

 セイド・ニヤズ・シャリカバイ モスク
1890年 ホルデット 撮影 2012年 秋野深 撮影

セイド・ニヤズ・シャリカバイ モスクはイチャンカラの東門の正面に位置するモスクで、アラクリ・ハーンの時代の豪商セイド・ニヤズ・シャリカバイによって1838年に建造されたものである。北側に正面入口があり、建物は、中庭、モスク、そして東側に併設された神学校で構成されている。

建造物内はヒヴァの職人による木彫りやギャンジと呼ばれる石膏彫刻の見事な作品で装飾されている。

煉瓦でできた高さ24m、直径4.5mのミナレットからはヒヴァが一望でき、その先端部分は美しい持ち送り積み式(コーベル式)で装飾されている。

併設の神学校は2階建てで12の宿坊があり、小規模なものであった。

【イチャンカラ東門正面の広場より撮影】

 ヒヴァ最初の病院
1912年 フダイベルゲン・デバノフ 撮影 2011年 秋野深 撮影

20世紀初頭にヒヴァでは学校、郵便局、電報局など公的機関が整備され、病院も1912年、ロシア帝国の皇太子アレクセイを祝して、クルヤズ・ババジャノグルらヒヴァの多くの建築家の手によってアクヤップ運河の側に建造された。

正面入口の上には、アラビア文字表記のトルコ語と古いスラブ語で「イスファンディヤル・ハーンからアレクセイ皇太子への贈り物である」と記されている。

当時の病院は王家専用であったが、後に経験豊富な医師が集められ、公的病院となった。

【病院の南西側の道路より撮影】

 パフラバーン・アフマッド・ザムチ廟
1873年 G.クリブツォフ 撮影 2012年 秋野深 撮影

アラクリ・ハーンの命により、1835年にディシャンカラに建造されたパフラバーン・アフマッド・ザムチの廟。

パフラバーン・アフマッド・ザムチはアブ・ムスリムに仕えたホラーサーン軍の司令官で、ホラーサーンの中心地メルブで過ごした時期が長かったため彼は最初はメルブに埋葬されていた。しかし、アラクリ・ハーンによって彼の墓地はヒヴァに移され、イチャンカラ東側にプール、モスクとともに廟が建造された。

【カール・マルクス通りより撮影】

 シェイク・ムフタル・バリ 廟
1950年 撮影者不明 2012年 秋野深 撮影

シェイフ・ムフタル・バリ廟は、14世紀にヒヴァ郊外のヤンギアリク地区に建造され、1940年、 1975年、1991年、1997年、2011年に繰り返し修復されてきた。
シェイク・ムフタル・バリは14世紀にホラズム地方にイスラム教を広めた指導者の1人で、彼の自宅と学校は、現在の古宮キョフナ・アルクの敷地内にあったとされている。

17世紀初頭にキョフナ・アルク内に建造されたアクシェイフババの高台の位置は、人々の言い伝えや考古学者の発掘調査によれば、シェイフ・ムフタル・バリの自宅と学校があった場所と一致するという。

【シェイフ・ムフタル・バリ廟の南側より撮影】