古代ローマ人は中国とインドの間の土地をSerindiaと呼んだ。Ser-(セレス)と-India(インド)の2つの語から構成された言葉で、「中国とインドの間の土地」を意味する。 中国の史書ではこの地域を「西域」と呼ぶが、それは甘粛玉門関以西の土地を指し、近代的な地理概念上の「中央アジア」に相当する。だが中国の史書にいう西域の地理的範囲はさらに広く、時には西アジアやエジプト、更には東ローマまでをも含む。
文字は人類社会が文明に向かう重要な標識の1つである。この尺度をもちいて、1968年、ケンブリッジ大学のグリン・ダニエル(G. Daniel)教授は世界で最も古い、単独起源の古文明の発祥地は6ヶ所あると発表し、通称「六大文明」と呼ばれている。そのうち、旧大陸にはメソポタミア、エジプト、中国、インドの4つがあり、新大陸にはメキシコとペルーの2つがある。いわゆる「西域文明」とは、世界の四大文明(エジプト、メソポタミア、インド、中国)の間に発生した文明である。
西域の三十六国では始めは漢字を使用していた。20世紀初頭、イギリスの考古学者スタイン(M.A. Stein)はタクラマカン砂漠のニヤ古城で、また中国の考古学者黄文弼はロブノール北岸の土垠遺跡で、次々と前漢~新莽年間の漢文木簡を発見した。ニヤから西晋の泰始年間の漢文漢牘(図 1)が発見されているように、タリム盆地では魏晋時代にいたるまで漢文の文書が使用されていた。
後漢末期、ガンダーラ(図 2)(現在のパキスタン南部とアフガニスタン北部)から西域に小乗仏教が伝った。このガンダーラ仏教の影響のもとに、カロシュティ文字で表されたガンダーラ語はタリム盆地の仏教寺院用語となった。フランスの探検家デュトルイユ・ドゥ・ラン(J. L. Dutreuil de Rhins)がコータン(ホータン)で発見したカロシュティ文字の『法句経』断片、またスタインがニヤ遺跡で発見したカロシュティ文字の経典は、それを証明する一助となろう。宗教用語以外にも、于闐、鄯善、疎勒、亀茲などの西域諸国ではカロシュティ文字を公用文字としていた。スタインは、ホータン、ニヤ、ローランなどの地で大量のカロシュティ文字の世俗文書(図 3)、主に西暦3~4世紀頃の鄯善王国の文書を発見した。ドイツ・トゥルファン探検隊のル・コック(A. von Le Coq)はスバシ古城とキジル千仏洞で、7世紀ごろのカロシュティ文字の銘文と帳簿を発見している。
大乗仏教が興った後、特にインドのグプタ王朝時代にあって、インド文化は全面的に復興した。インドの仏教徒は仏教寺院用語を次々とブラフミー文字とサンスクリットに変えていき、また西域仏教に対しても重大な影響を与えた。5世紀初め、法顕は長安からインドへ求法の旅に出かけ、途中でタリム盆地南部の鄯善、于闐などの地を通った。彼は旅行記の中で、「ここより(鄯善国を指す、現在の新疆南東部)西行、経る所の諸国は、皆是の如し。ただ国々の胡語は同じからず、然るに出家人は皆天竺の書、天竺の語を習う」と紹介している。法顕の言う「天竺の書」はブラフミー文字を指して、「天竺の語」はサンスクリットを指す。スタインは新疆ミーランの仏教寺院でグプタ体のブラフミー文字を発見しているが、この時期のものであろう。
漢代における西域三十六国の土着の住民は、主にトカラ語、サカ語(スキタイ語)などの印欧系語族の民族によって構成されていた。西域で最初に流行した3種類の文字――漢字、カロシュティ文字とブラフミー文字は、西域人にとって、全て外来の文字であった。文字を文明社会の尺度とするならば、西域文明の誕生は西暦4世紀を遡ることはない。もっとも早く自民族の言語をブラフミー文字を使って表した西域人は、タリム盆地南西の于闐人である。彼らは西暦4世紀頃にブラフミー文字で于闐塞語を書き表すことを始め、それによって于闐文を創造した。その後、シルクロード北道の亀茲人と焉耆人もブラフミー文字で民族の言語――亀茲語(Tokharian B)と焉耆語(Tokharian A)をつづるようになり,西暦7世紀頃に亀茲文字と焉耆文字を創造した。
西暦840年、ウイグル人の祖先――回鶻人が蒙古高原から西の中央アジアに移動してきて、トゥルファンなどの地に高昌回鶻王国を築きあげた。回鶻人はもともと突厥ルーニック文字(図 4)を使用していたが、トゥルファンに移って後、次第に中央アジアのソグド文字(図 5)を使って民族の言語を表すようになり、西暦9世紀頃に回鶻文字(図 6)を創造した。回鶻文字の中国北方民族に与えた影響は非常に大きく、蒙古文字は回鶻文字から生まれており、満州文字はその蒙古文字から生まれている。元帝国の五族協和のシンボルとして、回鶻文字(図 7)と梵字(図 8)、チベット文字(図 9)、パスパ文字モンゴル語(図 10)、西夏文字(図 11)と漢字(図 12)が、元の順帝年間に建てられた居庸関過街塔(図 13)に共に刻まれている。
20世紀80年代中期、イギリスの学者エルダル(M. Erdal)とグロンケ(M. Gronke)が刊行した、新疆のヤールカンドで発見されたカラハン王朝文書は、7件のアラブ文字契約書、5件のアラブ文字のチュルク語文書、7件の回鶻文字突厥語文書があり、年代は11~12世紀である。13~15世紀に中央アジアで覇をとなえたチャガタイ汗国でも、アラブ文字のチュルク語を使用し、チャガタイ文字と通称されている。現在、こうした文字は現代ウイグル文字の標準的な字体(図14下段左)になっており、中国語のピンイン(図14上段)、回鶻式モンゴル文字(図14中段左)、チベット文字(図14中段右)、チワン語のピンイン(図14下段右)と共に、中国の紙幣に印刷されている(図 14)。
西域文明の発展を見渡すと、大体三つの段階に分けることができる。
第1段階は「萌芽期」。主に楼蘭文明と于闐初期文明を代表として、年代は紀元前2世紀~紀元4世紀にあたる。この時期、西域にはまだ文字は生まれておらず、タリム盆地の諸国は主に漢字、カロシュティ文字、ブラフミー文字、ソグド文字などの外来文字を使用していた。紀元前2世紀、匈奴が西域の覇者となり、この時期に西域文化は中央アジア北方草原文化の影響を強く受け、高昌故城近くの車師大墓からは多くの匈奴文化的な芸術品が出土している。西暦2世紀末、タリム盆地に仏教が伝わる。それ以後、西域文化はガンダーラ、バクトリア等の地域のギリシア的仏教芸術の影響をうける。ヘディン(S.Hedin)が楼蘭LB仏教寺院遺跡で発見した木彫像や、スタインがミーラン仏教寺院遺跡で発見した壁画には、明らかにギリシア的仏教芸術の要素がみられる。
第2段階は「最盛期」。主に于闐末期文明、疎勒文明と亀茲文明を代表とする。年代は西暦5~8世紀。中国の僧侶が西方へ仏法を求めて訪れたのは、最初はインド本土ではなく于闐であった。玄奘がインドから持ち帰った経典は、うっかりコータン川に落としてしまい、彼の持ち帰ったサンスクリット語の経典は実際にはコータンで再び収集したものであり、これによっても中国仏教が于闐仏教の影響を強く受けていたことがわかる。美術の方面でも、唐朝の大画家の尉遅乙僧は于闐人であった。彼の絵画技法は唐代の中国画風に影響しただけではなく、朝鮮半島と日本美術に対しても重要な影響を与えた。
仏教が中国に伝わった後、亀茲は西域仏教の重要な伝播センターになった。中国仏教史上の一代名僧鳩摩羅什は亀茲の人であった。前秦の建元九年(373)、苻堅は鳩摩羅什の名声を敬慕して、大将軍呂光を派遣して亀茲を討ち、鳩摩羅什を涼州(現在の甘粛省武威)に迎えた。それ以後、鳩摩羅什は涼州で17年間布教する。後秦の時に、姚興は再度軍隊を派遣して涼州を討伐し、鳩摩羅什を国師の礼を以って長安に迎えた。西域各種の言語で書かれた約98部の経典が、鳩摩羅什の主宰の下で漢訳された。そのうちの52部が現在も残っており、『大蔵経』に収められている。
第3段階は「変遷期」。主にトゥルファンなどの回鶻文化とカシュガルなどのカラハン王朝文化を代表とする。この両王朝の出現は、タリム盆地の突厥化、イスラム化の歴史の始まりであった。トゥルファンは東西交通の要路に位置しており、多くの民族が集まり住んでいるだけではなく、その上多くの中央アジア、西アジアからきた外国人が存在していた。それに従いインドの仏教、西アジアのゾロアスター教、シリアのネストリウス派キリスト教、ペルシアのマニ教などがトゥルファンに入って来た。20世紀初め、ドイツ・トゥルファン探検隊はトユク千仏洞で中世の図書館を発見したが、そこには17種類の文字と24種類の言語で書かれた各種の宗教文書が所蔵されていたという。
9~11世紀、西域の民族と文化に大きな変化が起こる。疎勒、于闐などの地の印欧語族の民族は、チュルク語族の民族によって無情にも歴史の舞台を追い出され、西域の仏教文化はイスラム文化に取って代わられた。これらは皆、チュルク系民族が中央アジアのセミレチエ地方とカシュガルに建てたカラハン王朝によるものである。このイスラム教を信仰する王朝は、仏教国于闐に対して四十余年にわたる「聖戦」をしかけ、ついに1006年に于闐を滅ぼした。多くの学者は、敦煌蔵経洞の封鎖は、カラハン王朝の于闐攻略と直接関係があると考えている。これ以後、カシュガルはイスラム文化の重要な伝播センターになった。11世紀に完成した『突厥語大詞典』は、カシュガル出身のチュルク学者マフムード・アル・カーシュガリーがバグダッドで完成したものである。
2007年06月22日 改訂
2006年06月01日 発行
翻訳: 篠原 典生
編集: 大西 磨希子