新疆ウイグル自治区のコータン(ホータン)は東西交通の要衝にあり、古くは「于闐(うてん)」と呼ばれた。仏教が西域に伝来した後、于闐は小乗仏教の中心地の一つになった。西暦3世紀、朱士行が于闐を訪れ、大乗仏教が主要な地位を占めるようになった。11世紀になるとタリム盆地のイスラム化が始まり、カラハン王朝は于闐に対して24年にわたる聖戦をしかけ、1006年、終に于闐を陥落。千年の文明を誇るいにしえの文化も、19世紀になって欧米の探検家たちに再び発見されるまで砂漠の奥地に埋もれることになった。
一、探険史
于闐で最も有名な仏教寺院として、ダンダン・ウィリク遺跡(Dandān-Uiliq、Dandan Oilik)(図 1)をしのぐものはない。遺跡は現在の新疆コータン市の北90km、タクラマカン砂漠の中央に位置する(コータン付近地図(図 2))。ダンダン・ウィリクから発見された唐代の文書によって、この地は唐朝の毘沙都督府の管轄下にあった傑謝鎮であったことがわかった。
1896年、スウェーデンの探検家、スヴェン・ヘディン(Sven A. Hedin)はタクラマカン砂漠奥地でダンダン・ウィリクを発見し、一躍名をあげた。その後、ダンダン・ウィリクは中央アジア考古学の聖地となり、欧米の探検隊はこの砂漠の下から大量の唐代仏教寺院、文書及び壁画などのすばらしい文化財を発見し、于闐王国の昔日の輝きと古代東西文化交流の盛況を甦らせた。
へディンに続き、イギリスの考古学者スタイン(M. A. Stein)がヘディンの探検を足がかりにダンダン・ウィリク遺跡に至り、大量の仏教美術作品、古代の貨幣、唐代の文書及びブラフミー文字の写本を発掘した。西域美術史上有名な『龍女索夫(龍女伝説)』壁画、『養蚕西漸伝説図』、『鼠王伝説図』板絵などは、いずれもスタインがこの地で発見したものである。続いて、アメリカの地理学者E.ハンティントン(E. Huntington)、ドイツの探検家E.トリンクル(E. Trinkler)らがこの地を訪れた。彼らがダンダン・ウィリクで収集した文物は、現在それぞれアメリカのイェール大学図書館とドイツのブレーメン海外博物館に収蔵されている。
その後、ダンダン・ウィリクは再び沈黙し、半世紀が過ぎた頃、再び新しい訪問者を迎えることとなった。1997年、まず新疆文物考古研究所がこの遺跡に対する調査を行った。1998年、スイスの記者C.バウマー(C. Baumer)がいわゆる『中瑞探検隊』(Sino-Swiss Expedition 1998)を組織し、スタインの調査の上に立って、新たにナンバリングと発掘を行った。最も注目すべき発見は2002年と2004年の調査である。中日連合調査隊がダンダン・ウィリクで二度にわたる調査と発掘を行い、トリンクルが足を踏み入れた唐代仏教寺院を発見し、そこから大量の精美な壁画が発掘され、現在、新疆文物考古研究所で保存修復作業が行われている。2005年、新発見の壁画の一部が東京国立博物館で展示され、世界の研究者たちの注目を集めた。
二、神秘的な画像
ダンダン・ウィリクからの出土品の中で最も注目されるのは、美しく神秘的な壁画(図 3)と板絵(図 4)である。
DVII遺跡(図 5)で、スタインは三つの住居址を発掘し、そこから「護国寺」という文字の書かれた唐代の文書(影印(図 6)/翻刻(図 7))を発見し、これによってその遺跡を「護国寺」の一部分であると推測した。
また遺跡の東南隅近くで、スタインは両面に絵が描かれた板絵(DVII-6)を発見した。板絵の正面(図 8)は青い神像で、三面四臂、両手に日輪と月輪を持ち、中央の顔には額に第三の眼があり、虎皮の腰巻を着け、二頭の白牛に座している。この図像は、研究者たちによってシヴァを表すものと考えられている。多面多臂像は、インド的仏教の表現方法であり、インド本土の仏教石窟から中国中部の雲岡石窟第8洞の護法神像まで、その作例は少なくない。
板絵の裏面(図 9)はイラン風の装いをした神像で、一面四臂、高杯を持ち、短剣を帯び、中央アジア的な文様の服を着け、その姿はペルシア貴族に良く似ている。よって、スタインはイランの詩人フィルドゥーシー(Firdausi,940-1020)の叙事詩『シャー・ナーメ(王の書)』(Shahnameh)に謳われた英雄ルスタム(Rustam)と推定したが、多くの学者は于闐土着の神の姿を表していると考えている。このような中央アジア色の濃い人物像が、正面の非常にインド的なシヴァ像と同じ木板の両面に描かれていることはとても興味深い。この図像から、ペルシア、インド美術が于闐に強い影響を与えたことがはっきりとうかがえ、これらの異なる文化的要素が于闐でいかに共存し、融合したかが示されている。
また、ダンダン・ウィリク遺跡で新しく発見された大量の唐代壁画は、われわれが于闐美術の芸術様式を理解するための新しい資料を提供してくれた。ダンダン・ウィリク壁画については、中央アジアのソグド地域のゾロアスター教壁画が影響を与えたという見方もあるが、ダンダン・ウィリクで発見された唐代壁画には多くのインド的な神像(図 10)が存在しており、仏教とヒンドゥー教の混合の産物――密教絵画である可能性の方が高いだろう。
隋代末期から唐代初期にかけて于闐王国に二人の画家が相次いで現れ、「大小尉遅(うっち)氏」と呼ばれた。張彦遠は『歴代名画記』巻八に「尉遅乙僧(いっそう),于闐国人。父跋質那。乙僧国初授宿衛官,襲封郡公,善画外国及佛像。時人以跋質那為大尉遅,乙僧為小尉遅,画外国及菩薩。小則用筆遒勁如屈鉄盤絲,大則洒落有気概。僧悰云,外国鬼神,奇形異貌,中華罕具。……用筆雖與中華道殊,然気正跡高,可與顧陸為友」と記し、尉遅氏の絵画に対し非常に高い評価を与え、顧愷之、陸探微など前代の大家と並び称すべきものとしている。尉遅氏父子を代表とする于闐派画家は唐初に長安へ入り、西域絵画の新技法を長安に伝えた。それは中国の伝統的絵画美術の発展を刺激しただけでなく、朝鮮半島、更には日本の美術の発展にも重要な影響を与えた。
ダンダン・ウィリクから発見された板絵と壁画には、文献にいう「于闐画派」独特の特徴があらわされている(仏立像板絵(図 11))。絵画技法では、『歴代名画記』に尉遅派の「屈鉄盤糸」は、中国の伝統的な「遊糸描」や「蘭葉描」とは全く異なる筆使いであると評されている。2002年に発見されたダンダン・ウィリク壁画に額が大きく、耳が長く垂れる精美な仏頭図像がある。その肉体の輪郭線は朱線、衣文は黒線で描かれて、描線は肥痩の度合いが少なく、立体感に富み、文献にいう「鉄線描」の特徴を生き生きと再現している。また、日本の法隆寺金堂壁画に採用された鉄線描と隈取り(陰影法)は、一般に西域起源で、恐らく尉遅乙僧の流派に属すると考えられている。金堂壁画の図像は、ダンダン・ウィリクで新たに発見された仏画と通ずるものがあり、于闐尉遅氏の絵画様式が日本古代美術に大きな影響を与えたことを再び証明している。
イタリア人学者Mario Bussagliは于闐絵画を評して「……唯一誇るに足り、中国美術家と評論家の鑑賞に堪えうる偉大な画派は于闐画派である。遺憾なことに現存する絵画は少ないが、これらの作品のタイプ、起源、時代と主題が異質なものであることを示し、于闐画派はインド、ササン朝ペルシャ、中国、ソグドさらにはホラズムの影響をも吸収していることを証明している」と述べている。ダンダン・ウィリク遺跡の美術品の発見は、あたかも于闐美術のギャラリーが開かれたごとく、われわれの西域美術と文化伝播研究のために貴重な資料を提供してくれたといえよう。
翻訳: 篠原 典生
編集: 大西 磨希子