中国西北地区における簡牘文書の発見は、近代学術史上最も重要な事件の一つである。
中国の歴史における幾度かの学術研究上の重要な発展は、多くが新材料の出現と関連している。王国維先生の言説によれば、「古来新学問の起こるは、おおく新発見に由る」のである。 出土した文化財は、既存の文献資料を裏付けるのみならず、多くの方面で文献の不足を補い、それによって人々の視野を広げ、学術研究の新領域を開拓してきた。
19世紀末から20世紀初めにかけて出土した新材料は、その数量と影響の大きさにおいて、古今未曾有のものであった。殷墟の甲骨文字、西北の簡牘、敦煌文書、黒水城文書および明清内閣保管書類が最も学術的価値のある大発見といえる。その中で、関連する民族の数、言語と文字の複雑さは、西北簡牘文書が群を抜いている。
張騫の西域出使は、「鑿空」と称されている。ところが、考古学的発見は、中原と域外の往来は漢代よりも遥かに早くから行われていたことを示している。西洋の文献が提供するこの方面の情報は極めてわずかであることから、古代東西交流史を知るためには、主に漢文古籍に頼らざるを得ない。しかし、そうした中国側の古籍の記録もきわめて限られており、西域出土の簡牘はかなりの細部を補うもので、漢碑に勝るとも劣らない重要性を有している。
西域簡牘文書の発見は、西洋の学者が中国西部で行った「探険」に始まる。
1901年1月、イギリス国籍のハンガリー人学者スタイン(M. A. Stein)はその第1次中央アジア探険の際、ニヤ遺跡(ニヤ遺跡鳥瞰写真(図 1))において大量の漢文とカロシュティ文字(Kharosthī)の簡牘(カロシュティ文字の簡牘(図 2))を発見した。その後の3回にわたる中央アジア探険行で、スタインは毎回思いがけない収穫を得ている。スタインが簡牘文書を発見するにいたった経過については、彼の報告書に詳しく記録されている。スタインの第1次ニヤ探険後まもなく、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディン(Sven A. Hedin)が楼蘭古城(図 3)で大量の文書を発見している。
1908年、日本の大谷探険隊による第2次中央アジア調査の際、橘瑞超は楼蘭古城(LA)において5枚の木簡と39件の漢文文書を発見した。その中に現在、龍谷大学図書館に収蔵されている李柏文書がある。1927年、中国・スウェーデン合同探検隊(西北科学考査団)の中国側隊員である黄文弼が、ロプノール北東の土垠遺跡で71枚の漢簡を発見した。その年代は前漢宣帝の黄龍元年(紀元前49)から漢成帝の元延五年(紀元前8)までである
1949年以後も中国の学者は西北地区で続々と多くの簡牘文書を発見した。なかでも最も重要なものは、トゥルファンのアスターナ古墳で発見された大量の文書(図 4)で、それらは南北朝隋唐時代の西域史研究を補強するうえで、きわめて貴重である。
現在までに中国西北辺境地区で発見された漢唐時代の漢文簡牘文書は、数万件にのぼる。漢文以外にも、南アジアや中央アジア、西アジアで流行した多種類の古代言語と文字(漢文(図 5)、カロシュティ文字(図 6)、サンスクリット文字(図 7)、チベット文字(図 8)) があり、これらの資料は現在、世界各地の博物館に分蔵されている。ドイツ人学者ル・コック(von Le coq)が、トゥルファン盆地のトヨク溝蔵経洞で発見した各種文書に使用されていた言語は17種類、文字は24種類にも達した。こうした例は、世界の発見史上、他に見出すことができない。
形質人類学や遺伝子研究技術が発達するまでは、言語文字資料によって古代人種とその分布情況を推測してきた。西域出土の簡牘により、新疆の古代住民はサカ語とトカラ語の二つの大きなグループに分けられることが判明した。彼らはともにインド・ヨーロッパ語族に属する。驚くべきことに、トカラ語は意外にもインド・ヨーロッパ語族の西方群に近く、恐らく最古のインド・ヨーロッパ語の1つであることを示している。そのため、原始インド・ヨーロッパ人の足跡をタリム盆地に求めようとする研究者もいるほどである。
欧米学術界には歴史比較言語学の長い伝統があり、近代以来、S・レヴィ(S. Lévi)、T・バロー(T. Burrow)、H. W.ベイリー(H. W. Bailey)、W.B.ヘニング(W.B. Henning)などに代表される中央アジアの死言語と文字研究の大家を輩出してきた。中国では、季羨林、蒋忠新、林梅村、段晴などの優秀な学者がおり、古写本の解読や研究の方面で大きく貢献している。
中国西部で出土した簡牘は、漢文で書かれたものが多数を占める。西洋の学者は、最初に資料を手にしたため、研究の進展も最も早かった。スタインによる数次の探険で得られた漢文文書は、フランスの学者シャヴァンヌ(E. Chavannes)及び弟子のマスペロ(H. Maspèro)によって、整理・研究がなされた。ドイツの学者ヒムリー(K. Himly)、コンラディ(A. Conrady)も、相次いでヘディンの漢文資料を整理した。しかし、彼らが主に研究したものは比較的保存状態の良い文書であって、その他の断片は近年になって中国と日本の学者らが続々と刊行頒布している。そのうち最も重要なものはスウェン・ヘディンが楼蘭で発見した5件の文書である。。中国人学者の王国維と羅振玉は、「神物国を去り、惻しくして懐を疚む」と嘆き、西洋の学者の研究にも満足せず、奮起して『流砂墜簡』を著した。彼らの研究の深さと広さは、同時代の学者のレベルをはるかに越えていた。中国人学者の研究は、文字解釈と史的考察を重視するだけでなく、出土した実物を利用して過去の名物制度(物の名称と形状の制度)を考証することにも注意を払っている。王国維は《簡牘検署考》を著し、古文書の制度を考証しており、その中で中国西北地方で新たに発見された実物資料を数多く利用している。注目に値するのは、新疆で発見された多くのカロシュティ文字資料(ニヤ出土のカロシュティ文字封検(図 9))が中原の封検形式を採用している点で、漢文化の西域への伝播とその影響の一端を物語っている。
政治の移り変わりと砂漠化などの原因により、タリム盆地のオアシス国家は忽然と歴史から姿を消し、千古の謎となった。楼蘭やニヤから出土する漢代や晋代の古文書の中から「楼蘭」、「精絶」などの地名を見出した時に初めて、眼前の荒涼たる砂漠にかつて輝くばかりの文明が存在していたことを知るのであり、それらは千年の眠りから再び呼び覚まされるのである。しかしながら、文書の発見は新たな論争を招くことにもなった。橘瑞超の発見した「李柏文書」とは、前涼の西域長史李柏が現地の国王に当てた2通の手紙の草稿である。この二通の手紙にはいずれも「海頭」という地名が出てくる。そこで世界中の学界で、楼蘭の首都所在地をめぐる終わりのない論争が引き起こされたのである。研究者は各自、自説に固執し互いに譲らない。しかし、LAであれ、LBであれ、さらには海頭であれ、いずれにせよ我々はすでに古代文明に徐々に近づきつつあるのであって、そのことこそ最も喜ばしいことといえよう。
西北簡牘の発見は、書道の領域でも多大な反響を巻き起こした。
西北簡紙の出土以前には、現存する魏晋の書跡は西晋の陸機(261~303)による『平復帖』9行84字があるだけであった。王羲之の書簡となると、大部分が唐の皇帝によって昭陵と乾陵に埋められてしまい、現在目にすることができる作品は全て唐代の摸本であり、技法は非常に精緻であっても、神彩気息の自然な筆運びなどは原作から遥かに劣っており、もとの筆墨の趣をうかがうことは困難である。楼蘭で出土した漢文簡紙のうち、時代が最も早いのは曹魏嘉平四年(252)の断片で、その年代は『平復帖』より数十年も早い。出土した紙本文書には、手紙、練習紙、公文書などがある。一般に、公文書や正式な書簡の筆跡はきちんと整っているが、手紙の草稿や練習紙は筆任せにラフに書かれているために、図らずも筆法の情趣があらわれていることが多い。三国時代のこと、鍾繇は蔡伯喈の筆法を得んとするあまり「胸を搥くこと三日、其の胸尽く青ざめ、因って嘔血」したという。後に、彼は人を遣って韋誕之の墓から盗み取り、ようやく願いをかなえ、筆法は更に優れたものになったという。この故事はそれが真実かどうかに関わらず、「筆法」の重要さをよく説明しており、元代の趙孟頫は「用筆千古不易」と、特に強調している。西陲簡紙文書を目にすることができるというのは、まさしく千載一遇の幸いである。そこに古人の筆法をはっきりと見ることができるため、もはや摸本に頼る必要はないからである。
東晋南朝以後、「二王」の書風は次第に支配的地位を占め、書における美の主流と最高の規範となった。清代の学者は碑学を提唱し、軟弱な書風の弊を排し質実剛健を求め、長きに渡り変わることのなかった古い様式から抜け出すことに努め、書の審美情趣と実践活動に新方向を切り拓こうとした。西陲簡牘文書は生活感に溢れており、まさしくこの趨勢に一致していたことから、近世の書家がその書法に注目することになった。例えば、民国時代の天津の王世鏜は草書を、近くは沈之庵に師事し、遠くは流砂墜簡に学んだといい、高古朴茂たる書風で一世を風靡した。
百年以上にわたって、西域出土文書の学術研究の推進に果たした役割は多方面、また多くのレベルに及んでいるが、その価値がすでにほぼ掘り尽くされたとは言いがたい。新しい思想や新しい方法をもってすれば、旧資料であれ新資料であれ、汲めども尽きぬ無尽の宝庫となり得るであろう。
翻訳: 篠原 典生
編集: 大西 磨希子