世界の人々を魅了する大石窟寺院:敦煌莫高窟
蔵経洞の大発見と殺到する探検家たち
19世紀後半のヨーロッパ。莫高窟(敦煌千仏洞)の鮮やかな壁画や仏像に注目する人々は、ごく一部の学者にとどまっていた。20世紀初頭、イギリスのオーレル・スタインや、フランスのポール・ぺリオらが相次いで莫高窟を調査し、壁画の写真とともに、おびただしい数の経巻・文書・絹本画をヨーロッパにもたらしたことで、莫高窟は一躍注目を浴びるようになった。そして探検家たちが蔵経洞から各国に持ち帰った文物は、長年にわたって敦煌に関する研究(敦煌学)が盛んとなるきっかけを作った。
これら貴重な経巻類は、1900年に、第16窟の甬道(ようどう:主室に入る通路)北壁から偶然発見された、小窟(1)に蔵されていたものである。この小窟には数万点にのぼる経巻類が封じ込めてあったことから、そこは「蔵経洞」(第17窟)と名づけられ、そこから出た写本類は「敦煌文書」や「敦煌写本」「敦煌遺書」などと呼ばれるようになった。
蔵経洞大発見の立役者は、王圓籙(2)という道教僧である。彼は飢饉のため流浪したすえに莫高窟にたどり着き、そこに暮らしながら、石窟に積もる流砂をほうきで掃き出したり、寄付を募っては修復を加えるなどして過ごしていた。蔵経洞発見にいたるいきさつにはいくつかの説があり、一説には楊という写経生がキセルで甬道を叩いたときに空洞のような響きが返ってくることに気付いたことがきっかけという。光緒26年5月26日(西暦1900年6月22日)の夜更け、王圓籙と楊の二人がその壁を壊してみると、壁の向こう側には古文書類が天井まで積み上がった小窟があった。
この発見のうわさは徐々に広まり、1907年3月に莫高窟を訪れたイギリスの探検家、オーレル・スタインの耳にも入った。スタインは早速、王圓籙を訪ね、蔵経洞発見の文書類が予想以上に貴重なものであることを理解すると、払える限りの金額を提示して買収を試みたが、王圓籙をすぐに説き伏せることはできなかった。スタインはおぼつかない漢語を懸命にあやつりながら王圓籙に徐々に近づき、最終的には馬蹄銀4枚という僅かな金額で、数千点もの文書や絵画を購入することに成功した。帰国後、これらの蔵経洞将来品は、大英博物館で一般公開され、大きな反響を得ることになる。
翌1908年に敦煌を訪れたペリオは、語学に精通した探検家であり、スタインとは違って古文書を自ら読むことができた。彼は蔵経洞に籠もって、残されたすべての遺品に目を通し、資料的価値の高いもののみを選りすぐって六千点あまりを買い取った。のちに日本の大谷探検隊も数百点、ロシア隊は一万点ほどの文書類を入手しており、アメリカのラングドン・ウォーナーは、蔵経洞以外の石窟から壁画や塑像を一部剥ぎ取って、自国に持ち帰っている。
こうして蔵経洞の発見以後、莫高窟には各国の探検家が相次いで訪れた。蔵経洞にうず高く積まれていた遺物は、またたく間に彼らの手に渡って国外に流出していった。その多くは現在、イギリス・フランス・ロシア・日本・アメリカなどに分散して所蔵されている。こうして貴重な遺物のほとんどは現地を離れてしまったが、このことが逆に、敦煌に関する研究が「敦煌学」という国際的広がりをもつ研究分野に発展してゆく機縁ともなった。
深まる蔵経洞の謎
蔵経洞と呼ばれるようになった第17窟は、経巻類を蔵するために作られたのではなく、高僧の像を安置する御影堂として作られた窟だった。それでは、いつ、誰が、どのような事情で、ここに大量の経典や絵画を積み上げ、壁をつくって封じたのだろうか。
まず「いつ」という問題に関しては、蔵経洞から発見された経典や絵画がいずれも11世紀より前のものであることから、これが封じられた時期を論じる一つの根拠になると考えられた。
この根拠をもとにペリオらが最初に唱えた説は、西夏王朝(1032-1227)を建てたタングート族が1036年頃に敦煌へ侵入する直前に、敦煌の仏教徒が襲撃に備えて大事な文書類を小さな洞窟に封じ込めた、というものだった。しかし西夏の支配者は厚く仏教を信奉しており、むしろ莫高窟の造営に力を注いでいたことがわかってきた。そこで出された説は、西夏王朝が攻撃したのではなく、むしろ西夏王朝がイスラム教勢力の侵攻から経典類を守るために封じたという説である。10世紀末、カシュガルで興ったイスラム教勢力のカラハン王朝は軍隊を東に進めており、30年におよぶ戦争の後に、西域仏教の中心であるコータン(ホータン)を占拠し仏教遺跡を破壊していた。その後の敦煌の攻撃を予期した西夏王朝が、敦煌の仏教徒に命じて蔵経洞を封じさせたというのが新しい説である。蔵経洞を封じていた16窟の甬道の壁画が西夏時代のものであることが、その根拠の一つであると考えられている。
このような攻撃説に対して、廃棄説という考え方も有力である。蔵経洞から発見された文書類は、経の断片や残巻、紙の両面を使用したものが多いため、焼却するに忍びない使い古された経巻や文書、幡画、仏画を、ひとところに集めて封じ込めたのではないか、というのがその説である。
これらの説のどれが正しいのか、まだ決め手となる証拠は見付かっておらず、現在も新たな角度からの調査研究が続けられている。
莫高窟の新たな発見となった北区石窟
蔵経洞は、南北に約1700メートルに及ぶ莫高窟の南側の区画(南区)に位置している。南区には計487の窟があり、そのほとんどが壁画や塑像で飾られている。現在一般に公開されているのはこの南区で、いわゆる莫高窟のイメージは南区の石窟群に関するものと言ってよい。
ところが莫高窟には、一般には公開されていない、もう一つの区画がある。北区(3)である(現在の写真(4))。北区には248の窟があるが、南区とは対照的に、元代に開かれた5つの窟を除いて壁画や仏像がなく、簡素な洞窟が蜂の巣状にただ整然と並んでいるだけである。南区と北区の石窟はなぜこうも違っているのか。かつては、北区の石窟は南区の石窟を完成させるために集った画家達が住む画工窟である、とする説が有力であった。
ところが1988年~1995年の発掘調査の結果、北区には僧侶の修行の場である禅窟や、僧侶の生活の場である僧房窟、亡くなった人のための遺窟、などが集まっていることがわかった。禅窟は計82カ所あり、広さは2畳ほどで天井が低く、室内には装飾が施されず、ただ坐禅を行うための壇があるのみである。僧房窟は50カ所ほどあり、禅窟にくらべてやや大きく、天井も生活するのに適当な高さであり、土間や煙突が設えられている。遺窟は25カ所ほどあり、単独の遺骨や家族と思われる数人の遺骨、また彼らの遺品が発見されている。人が一人入れるほどの大きさで、入口が煉瓦で塞がれた跡のある窟は、僧侶が座禅修行の姿のままで徐々に食を断ちながら亡くなるという、僧侶の理想とされた坐亡(ざぼう)のための施設であったと考えられている。
このように、仏像や壁画で飾られた南区の石窟群が参拝者や法要でにぎわう一方で、北区では僧侶が閑静な環境のもと厳しい坐禅修行を行い、生活をし、葬られていった。莫高窟は、南区と北区という二つの区画によって構成された石窟寺院だったのである。
失われつつある文化遺産とその保護
スタインやペリオなどの探検家の報告書には、20世紀初頭の莫高窟を撮影した写真が残っている。例えば1921年発行のスタイン著『セリンディア』には、100年前の莫高窟(5)(現在の写真(6))が克明に記録されている。この時代の莫高窟は、石窟前方の壁がくずれて壁画で飾られた石窟内部が露わになっており(1907年当時の莫高窟)(7)、石窟への行き来には梯子を使わざるをえないような状態だった(テラス部分が崩壊した石窟群)(8)。
当時の敦煌は荒れ果てた寺院ではあったが、多くの人が参拝に訪れる「生きた寺院」でもあった。そのにぎわいを、スタインは以下のように書き残している。
敦煌の善男善女は、現に今日でもなお、異様な情熱でこの礼拝を続けている。礼拝の儀式は、仏教が中国の民間信仰と奇妙な形で混淆していることをよく現している。千仏洞をはじめてあわただしく訪問したとき、すでにわたしはこれらの洞窟寺院が -外見ははなはだしく崩壊しているにもかかわらず- 依然として真の「生きている」礼拝所であることに気づいていた。そしてさらにその印象を深くしたのは、年一回の祭日のことだった。……敦煌オアシスの町民、村民らが何千人となくこの聖跡に集まってきたのだ。
この引用文に出てくる「年に一度の祭礼」とは、旧暦の4月8日にあたる釈迦誕生日の祭礼を指している。現在でもこの祭礼は残っており、無料開放されるこの一日のみで、莫高窟を訪れる参拝者は5000人以上にのぼる。
それに加えて、現在の敦煌のにぎわいは、何といっても世界各地から敦煌に魅了されて集まってくる観光客が作り出している。そこで大きな問題として浮上してきたのが、文化遺産の保護という問題である。観光客の増加や、その他のさまざまな環境変化から、どのようにして敦煌の文化遺産を守っていけばよいのだろうか。
まず、敦煌の文化遺産は、洪水などの自然災害やその他の環境変化に影響を受けている。スタインが100年前に撮影した石窟内部の写真(9)などを見ることにより、自然災害によって失われた壁画や塑像の昔の姿を調べることができる。例えば第3窟の千手千眼観音像(10)については、スタインの写真では、巧みな描線や重厚な趣の造形など元代絵画芸術の高い水準を見ることができるが、現在はかなりの部分が剥落してしまっており、写真のような姿ではもはや見ることができない(参考文献[4]、[5])。
また現在の莫高窟は、観光客の参観による影響も受けている。スタインが訪れた当時はひどく荒廃していた莫高窟であったが、その後は崩れていた前壁を補修して回廊でつなぎ、石窟のひとつひとつに保護のための扉を完備し、断崖も崩れ落ちないように補強した(現在の写真)(11)。さらに、各壁面をガラスの仕切りによって保護し、一般公開する窟数を限定するといった措置によって、観光客が敦煌の文化遺産に与える影響を少なくしようとする試みも続いている。しかし観光客の参観やその他の原因による壁画の損傷や剥落を、完全に防ぐことは難しい。
莫高窟に残された壁画や塑像は、つねにさまざまな環境変化にさらされ、時代とともに少しずつ失われていく運命にある。敦煌に魅了され殺到する観光客と、環境変化に弱く失われやすい文化遺産の保護とを、どのように両立させていけばよいのか。今後の敦煌にとって、もはや避けては通れない問題である。
さらに詳しく知りたい方へ
2005年08月09日 改訂2版
2005年06月22日 改訂
2005年06月14日 発行
執筆: 村松 賢子・大西 磨希子・北本 朝展
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