貴重書で綴るシルクロード

シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

大草原に生きた馬たち:モンゴル馬と汗血馬

天馬來兮~天馬来たりぬ

天馬徠兮 從西極 (天馬来たりぬ 西極より)
經萬里兮 歸有徳 (万里を経て 有徳に帰せり)
承靈威兮 降外國 (霊威をうけて 外国をくだす)
渉流沙兮 四夷服 (流沙を渉りて 四夷は服しぬ)[a]

前漢の武帝が、西域のかなたより良馬を得た喜びを歌った歌である。シルクロードは、一般に張騫の西域遠征を以って始まりとする。しかし、その遥か以前から草原地帯を通じたもう一つの「道」があった。今日ではステップルートとも呼ばれている、北緯50度線を境に南北約10度の範囲を包括する中央ユーラシアの北部草原地帯を通るルートである。

この中央ユーラシアの北部草原地帯は、古くから騎馬遊牧民が活動した場所である。彼らは馬の背に乗り、草原世界を舞台に物資の交換や情報の伝達をおこなった。たとえば、1924年にロシアの探検家P.コズロフによって調査されたモンゴルのノヨン・オール(ノイン・ウラ)古墳群からは、前漢末の年号である「建平五年」銘のある漆塗りの耳杯や、後期スキタイの動物文様を受け継ぐグリフィンを表現した毛氈などが出土しており、南から来た漆器や西から伝えられた文様など、シルクロードの交流を今に伝えている。

この草原地帯における文化交流の動脈となった馬と人とのかかわりは、どのようなものだったのだろうか。

家畜化と家畜馬の起源

人はいつ馬の背に乗り始めたのか。馬の家畜化は、ヒツジやウシより遅く、草原地帯のいずれかの土地で始められたとされているが、その具体的な起源は明確でない。

(1)

現在生息する馬は、ほぼすべて家畜化されたものか、家畜馬が再野生化したものといわれている。19世紀末のロシアの探検家プルジェワルスキーは、キルギスで野生馬を発見したと報告している。いわゆる「モウコノウマ」(蒙古野馬)(1)[b]と呼ばれる種類の馬で、家畜馬の先祖とされる。染色体数が馬よりも多く(2n=66、馬は2n=64)、背中に鰻線(まんせん)とゼブラ線があり、鬣(たてがみ)が短く立っているなど、家畜馬とは異なる形質的特徴を備えている。今日では発見者の名をとって「プルジェワルスキー馬」(Equus przewalskii)とも呼ばれている。

(2) (3)

馬はいつごろから家畜化したのか。遺跡や遺物から確認される早い例としては、紀元前4000年のウクライナにあるデレイフカ遺跡から出土した馬具や、前3500年~前3000年とされるカザフスタン北部のボダイ遺跡の馬歯にみる轡(くつわ)の痕跡が挙げられる[c]。また、前3500年ごろメソポタミアでは車両の発明がおこり、馬は牽引獣として牛に引き続いて利用されるようになった。車両の利用は瞬く間に各地へと広まり、前3000年に遡るパンペリーの発掘した南トルクメニスタンのアナウ遺跡(2)からは、馬骨(3)が大量に発見されている。さらに、前1500年頃とされる殷墟(中国・河南省安陽)考民屯の車馬坑からは、戦車とともに埋葬された馬が見つかっている。

馬と人との関わり

(4)

馬に乗りながらヒツジやヤギの群を管理する騎馬遊牧の習慣が草原地帯に広まったのは、紀元前1000年前後とされる。馬に乗って放牧を行う場合、徒歩による場合とは比較にならない規模の家畜を管理できるようになる。一度に数百頭を管理することも可能であり、騎馬遊牧の普及は草原地帯の生活形態を一変させるものであった。この生活スタイルを背景に、西の黒海北岸ではキンメリアやスキタイ、東では匈奴や烏孫と呼ばれる集団が史書に現れるようになる。特に彼らの風習は、ヘロドトスの『歴史』や班固の『漢書』匈奴伝など、東西の歴史家によって詳細に記録され、その文化習俗の類似が指摘されている。また、草原地帯に残る岩画(4)には、しばしば騎馬による放牧の図が刻まれており、当時の様子を垣間見ることができる。

以下では、シルクロード上における馬と人との関わりをいくつかの項目から眺めていこう。

生活の上での関わり

(5) (6) (7)

家畜は肉や乳の利用など、人の生活に利用されると同時に、また、時には財産として交換される場合もあった。たとえば、スタインがタクラマカン砂漠南部に位置するニヤ遺跡より発掘した木簡(5)から、その様相をうかがうことができる。これらは1000年以上も前に墨で書かれた木簡であるが、木簡N.xv.109(6)は借金の抵当として馬を差し出すこと[d]、そして木簡N.xv.324(7)は白い斑馬の様子[e]を記録しており、当時から馬がこの地で財産として扱われていたことがわかる。

権力との結びつき

(8) (9)

スタインがマザール・ターグで入手した壁画(8)には、鞍をはずした馬群や、家畜を馬引きが連れて行く様が描かれている。日常生活において、馬は高い価値を持つ家畜として扱われていたことが窺える。

馬に乗れば自ずと目線は高くなり、また大量の馬を養うためには相応の土地も人手も必要となる。それゆえに着飾った美しい馬や大量の馬群は、古来より権力の象徴とされてきた。中国の西周時代の墓葬遺跡である、北京瑠璃河の燕国墓地からは、121基の墓と21基の車馬坑が見つかっており、そのうちM1046大墓の陪葬坑とされる1100号車馬坑からは、14頭の馬と5乗の車が発見されている。また、モンゴルの北方にあるトゥヴァ共和国で発掘された初期スキタイ時代のアルジャン古墳からも、馬の殉葬が見つかっている。殉葬されていた馬はすべて12歳以上の雄馬のみで、中央に6頭、周囲には15頭ないしは30頭ずつの計161頭が、おそらく毛色ごとに分けて埋葬されていたと考えられる。そのほか、出土遺物に目を向けると、紀元後1-3世紀に北西インドに栄えたクシャーン王朝のコインには、馬に乗る王の姿が表されている。また莫高窟千仏洞の壁画には、高位の人物がきらびやかに装飾を施した馬に乗る姿が描かれている(張儀潮統軍出行図(9))。これらの例はいずれも、馬がその所有者や騎乗者の地位、権力の高さをより際立たせる働きをしているといえる。

神聖化

(10) (11)

馬は人類の歴史の中で権力と結び付けられると同時に、聖性の付与もなされている。4世紀の仏教遺跡であるアフガニスタンのバーミヤン遺跡では、東大仏の天井画に太陽神スーリヤの車を引く白馬が描かれており、クムトラ石窟の太陽神の天井画(10)にも同じく太陽神の車を引く馬の姿をみることができる。スタインがアスターナ墓地で発見した隋代の連珠紋錦(11)には、ササン朝起源の翼を持つ天馬が向かい合って表されている。同様の連珠文装飾は、同じくスタインが調査したサマルカンドのアフラシヤブにおいても発見されている。人は、馬との関わりのなかで、その存在を神々の世界に取り込んだり、翼を付与するなどの創造を加えたりしながら、馬に対する聖性化を行っていったのだろう。食肉用の家畜とは一線を画する形で、人とかかわってきた役畜としての馬の様相をうかがうことができる。

武帝と汗血馬

前漢時代、中国北方に覇を唱える遊牧国家の匈奴に悩まされていた武帝は、前代までの屈辱的和平関係を脱し、武力による討伐へと策を転じた。武帝は衛青や霍去病らの将軍によって匈奴を進撃するとともに、西方から匈奴を挟撃する計画のもと、張騫を西方の月氏に派遣した。張騫は途中、匈奴に十年以上も抑留されるなどの辛苦を経ながらも西域諸国を行き巡り、その結果、西方の多くの情報を漢にもたらし、漢の西域経営の端緒を開いた。世に言う「張騫の鑿空」である。

衛青や霍去病らの活躍により、漢は次第に匈奴を駆逐し、西域を支配下に置いていった。その過程で張騫が武帝に進言した情報の一つが、フェルガナ地方の大宛国で産するという、血の汗を流し、祖先は天馬の子とされる名馬「汗血馬」であった(『漢書』西域伝(12))。この名馬を欲した武帝は、使者に「千金及び金馬」を持たせて大宛に遣わしたが、馬を惜しんだ大宛王は、漢は遠国ゆえ攻めてくることもあるまいと見くびり、使者を殺害して財物を奪い取ってしまった。そこで武帝は、弐師将軍李広利に兵十余万人を率いて大宛を討たせ、ついに汗血馬を得た。この喜びを歌ったのが、冒頭の「西極天馬之歌」である。それ以前、「天馬」の名は、先に烏孫より贈られていた良馬に対して与えられていたが、いま更に優れた大宛馬を手に入れたことで、烏孫馬は「西極」と名を改められ、「天馬」の称は大宛馬に与えられることになった(『史記』大宛列伝(13))。

(12) (13)

武帝による積極的な外征は、西域諸国に漢の威を示すこととなり、以後、楼蘭にはじまり安息、康居などの西域諸国が陸続と漢に入貢するにいたった。また武帝は、西域のみならず南方や東方にも遠征の手を伸ばし、その結果、西域の様々な物資が、南方の奇貨などとともに、大量に漢にもたらされるようになった。その様子を『漢書』西域伝は、つぎのように記している。

天馬・葡萄を聞き、則ち大宛・安息に通ず。是より後、明珠・文甲・通犀・翠羽の珍は、後宮に盈(み)ち、蒲梢(ほしょう)・竜文・魚目・汗血の馬は、黄門に充(み)ち、鋸象・師子・猛犬・大雀の群は、外囿(がいゆう)に食(やしな)われ、殊方の異物、四面より至りぬ[f]

絹馬交易

シルクロード学の泰斗、松田寿男は、シルクロードにおける文化交渉を指す言葉として「絹馬交易」なる語を提唱した。これはすなわちシルクロードの本質は、中国側の提供する絹と草原側の提供する馬を介した交渉にあるとする考えにもとづくものである。シルクロード(絹の道)という言葉の陰にややもすると隠れてしまいがちであるが、草原とそこに産する馬は、シルクロードの文化交渉史を考えるうえで外すことのできない、もう一つの大きな柱といえよう。

[a] 『史記』巻二四楽書第二。
[b] 北京動物園にて田中裕子撮影(2007年12月)。
[c] 現在、デレイフカ(Dereivka)の年代をめぐっては論争があり、C14年代測定では前2000年ほどまで下がるという結果も出されている。馬歯にみる銜圧痕の実験研究はアメリカのアンソニーが主体となって行っている。
[d] 「去三月一日騎馬詣元城收責期行當」
[e] 「白駁馬故素鞍勒」

さらに詳しく知りたい方へ

2008年02月06日 改訂
2005年03月13日 発行
執筆: 田中裕子・佐藤園子・大西 磨希子

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おことわり

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