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3.古代インドの音楽と楽器岡田恵美

3-1 古代インド文明とヴェーダの詠唱

 インダス川とガンジス川に挟まれ、豊かな水資源に恵まれたヒンドゥスターン平野は、古代より農耕や牧畜が発達した。紀元前2500年頃にはメソポタミアの影響を受けて、インダス川を中心に東西1500kmに及ぶ古代インダス文明が生まれ、ハラッパーやモヘンジョ・ダーロの遺跡からは、象形文字や印章、煉瓦、青銅器の使用、また公衆の沐浴施設、排水構や舗装道路の整備等、当時の高度な都市文明を伺い知ることができる。

 前2000年頃にインド・ヨーロッパ語族のインド・アーリヤ人が、中央アジアから徐々に南下を始めると、インダス文明は突如、前1500年頃までには滅亡し、アーリヤ人は先住民であったオーストロ・アジア語族のムンダ人や、ドラヴィダ人を征服しながら、パンジャーブ地方を経てガンジス川流域へと進出した。アーリヤ人は、火・風・雷・太陽といった自然要素とその絶大なエネルギーを神格化して崇拝するようになり、これがバラモン教の起源である。神々への讃歌・詠歌・祭詞・呪詞が記された聖典ヴェーダは、初期のアーリヤ人の社会や宗教的慣習を理解する上で重要な資料である。前2000年から前600年頃まではヴェーダ時代と称され、ヴェーダを唱え、祭祀を司る役割が必要になると、司祭階級であるバラモンを最高位として、宗教的・職業的な階級制であるカースト制度が徐々に形成されていった。

 バラモンによって朗誦され、伝承されてきたヴェーダには、『リグ・ヴェーダRigveda』(神々の奉迎と讃誦)、『サーマ・ヴェーダ Sāmaveda』(詠唱)、『ヤジュル・ヴェーダ Yajurveda』(供物の奉納)、『アタルヴァ・ヴェーダ Atharvaveda』(呪法)があり、各ヴェーダは『サンヒター
Samhitā』と呼ばれる本集(狭義のヴェーダ)の他、祭儀書や奥義書といった複数の付属文献で構成され、祭官の職分も各ヴェーダによって分業化された[第6章参照]。インド最古の聖典であるリグ・ヴェーダには、火神アグニや風神ヴァーユ、雷神インドラなど様々な神々が登場し、中でも太陽神スーリヤは、馬車で天界を翔る守護神として仏教にも採用された。

 そうした神々への讃歌には、3種のイントネーション、すなわち「ウダーッタ udātta」(高められ)、「アヌダーッタanudātta」(高められない)、「スヴァリタ  svarita」(よく響き、曲折した)が用いられ、リグ・ヴェーダの朗誦は、今日まで何千年にも渡って伝承されてきた。

 また後期ヴェーダ時代に編纂されたサーマ・ヴェーダは、リグ・ヴェーダよりも使用される音域が広がり、技巧的な旋律で詠唱される。伝説では一千もの学派があったとされるが、殆どが衰退し、隠滅してしまった文献も数多いと考えられ、今日ではカウトゥマ派 Kauthuma、ジャイミニーヤ派 Jaiminiya、ラーナーヤニーヤ派 Rānāyanīyaの三学派が伝承を続ける。[辻:5-6]

 サーマ・ヴェーダの詠唱は、インド古典声楽の源流であると同時に、後の仏教声明にも影響を与えた。現在では、インドにおける仏教声明は仏教の衰退と同時に影を潜めたが、他方、中国や日本の東アジア、またチベットやブータンといった地域では、仏教声明の伝統が受け継がれている。

 では、ヴェーダの詠唱以外の古代インドの音楽や楽器とはどのようなものだったのだろうか。ヴェーダ時代に楽器演奏や舞踊に従事していたのは、カースト最下層のシュードラ(奴隷階級)に属する非アーリヤの先住民であった。[カウフマン:22]当時の楽師や楽器の様相を知る手掛かりとして、仏教遺跡の壁画や彫刻といった図像資料の存在にまず注目する。

3-2 仏教彫刻にみるインド古代王朝時代の楽器

 クシャトリヤ(王侯貴族・武士階層)やヴァイシャ(商人・農民階層)の勢力拡大によって、バラモン優位の支配体制が揺らいでヴェーダ時代が終焉を迎えると、前5世紀頃にはジャイナ教と仏教が成立し、マガダ国王の保護を受けた仏教は、カースト制度の批判や人間が平等に救済されることを説き、被支配階級の支持を集めた。

 その後、ヒンドゥスターン平原一帯の統一を果たしたマウルヤ朝(前320-185年頃)では、仏教に帰依したアショーカ王の元で仏典の編纂や仏教の保護と伝道が盛んに行われたが、王の死後は急速に国家が衰退し、以後はイラン系サカ王朝、ギリシア系バクトリア国、遊牧民の大月氏国と、様々な異民族による侵入と興亡が北インドを舞台に繰り返された。同時代のサーンチーの仏教遺跡からは、縮れた毛髪に裾の長い上衣と長靴を装った、サカ族とみられる外来民族の姿が確認され、首から下げた細腰鼓を手や撥で打ち、竪笛や先端が湾曲した管楽器を吹きながら、仏塔に供物を捧げる様子が描かれている。


 南インドでは、マウルヤ朝の衰退後、デカン高原を中心にドラヴィダ人がサータヴァーハナ王朝(前1-後3世紀頃)を建設し、西アジアやローマとの交易で繁栄した。同時代の仏教寺院であるナーガールジュナコンダ遺跡やアマラーヴァティー遺跡からは、天上の奏楽団である「ガンダルヴァ gandharva」(乾闥婆)の姿が複数の彫刻から発見されている。アマラーヴァティー遺跡の彫刻には弓形ハープを奏でるガンダルヴァの姿が見られ【図1】、その他にも、前述の遺跡群の複数の彫刻には、五絃琵琶の存在を確認する事ができる。直頸の五絃琵琶はインド起源と考えられ、日本には奈良時代に中国経由で伝来し、正倉院には「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」が保存されている。

【図1】アマラーヴァティー遺跡の横柱彫刻にみるガンダルヴァ〔3世紀頃、アマラーヴァティー遺跡、大英博物館所蔵〕画像提供:大英博物館 ©Trustees of the British Museum  ※クリックで拡大

3-3 クシャーナ朝からガンダーラ地方や西域への仏教文化の伝播

 異民族の攻防で混乱が続いた北インドでは、1世紀中期になると、イラン系クシャーナ人がインド北西部を統一し、クシャーナ朝(1-3世紀)として都をプルシャプラ(現在のパキスタンのペシャワール)に置いた。2世紀中期のカニシカ王時代に全盛期を迎え、西北インドを中心に大乗仏教が再び支持を集めた。

 クシャーナ朝の領土は、西はパルティア王国、東は中国の後漢に接するほどにまで拡大し、シルクロードと北部インドを繋ぐ主要交易都市を含んでいたため、東西交易や文化の交流が盛行した。ガンダーラ地方ではヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシア・ローマ美術と仏教文化が融合したガンダーラ美術が芽吹き、クシャーナ朝歴代の王の庇護下で、ローマを含む諸地域からは職人が召喚され、ガンダーラ様式が確立して仏教美術として興隆した。ガンダーラ各地に建立された仏教寺院からの出土品には、楽師達をモチーフにした浮彫【図2】が複数存在する。舞人に伴って、角形ハープを小脇に抱えて爪弾く者や、壷型の太鼓を叩く者が彫刻の中には見られ、楽器や衣装においても東西双方の文化の影響が色濃く反映されている。
【図2】ガンダーラ彫刻にみる楽師(写真3点)
〔1世紀頃、ガンダーラ遺跡(パキスタン)、クリーヴランド美術館所蔵〕
画像提供:クリーヴランド美術館 © The Cleveland Museum of Art ※クリックで拡大
 
 Stair Riser Relief. Pakistan, Gandhara, Buner area, early Kushan Period (1st century-320), 1st century. Gray schist, 17.1 x 44.5 cm.
(c) The Cleveland Museum of Art. Dudley P. Allen Fund 1930.328.1
 
 Stair Riser Relief. Pakistan, Gandhara, Buner area, early Kushan Period (1st century-320), 1st century. Gray schist, 16.5 x 53.0 cm.
(c) The Cleveland Museum of Art. Dudley P. Allen Fund 1930.328.2
 
 Stair Riser Relief. Pakistan, Gandhara, Buner area, early Kushan Period (1st century-320), 1st century. Gray schist, 17.1 x 44.5 cm.
(c) The Cleveland Museum of Art. Dudley P. Allen Fund 1930.328.3

 また、中央アジアにもガンダーラ様式の彫刻が見られ、ウズベキスタン南部テルメズ近郊のアイルタム遺跡からは、竪箜篌と四絃琵琶、細腰鼓を抱えた3人の楽師像の浮彫が発見されている。

 中国史では西域と称される中央アジア東部(現新疆ウイグル自治区南部)においても、クシャーナ朝時代のインドから大乗仏教が伝来し、3世紀には仏教文化が開花した。天山山脈の南に位置する広大なタクラマカン砂漠を中心に、その南道と北道のオアシス都市を結んだ二つのルートが天山南路であり、仏教文化は南道から北道へと伝播し、6-7世紀には最盛期を迎えたが、それを最後に衰退の一途を辿り、同地域での仏教文化は完全に途絶えた。

 北道の中央に位置する亀茲(クチャ)は小乗仏教が栄えたオアシス都市であり、近郊のキジルやクムトラの石窟寺院の壁画には、インド、西アジア、北アジアの広範な文化の影響が見られる。日本の大谷探検隊は、近郊のスバシ寺院遺跡から木製の舍利容器を収集し、現在は東京国立博物館が所蔵している。その側面には、伎楽面を被った舞人や竪笛や角笛を吹く楽師の総勢21名の行列が描かれ、蓋部分には箜篌や五弦琵琶を奏でる天界人の姿が見られる。中国の唐代には十部伎の一つとされていた亀茲楽の様相を窺い知る貴重な史料と言える。

3-4 古代インドの演劇理論書『ナーティヤ・シャーストラ』

 北インドでは、カニシカ王の死によってクシャーナ朝が凋落すると、4世紀初期にグプタ朝(320-550頃)が誕生するが、エフタルの侵入によって滅亡し、7世紀に北インドの統一を成し遂げたヴァルダナ朝も短期間で衰退した。だが、グプタ朝・ヴァルダナ朝時代は、サンスクリット文学の黄金期であり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』といった二大叙事詩や戯曲『シャクンタラー』といった優れた古典作品が生まれた。また両時代には、ヒンドゥー教が仏教を圧倒して支持を得、カースト制度に基づきヒンドゥー社会の規範を説いた『マヌ法典』が完成した。グワーリヤル考古博物館には、ヒンドゥー教の創造神ヴィシュヌの神話を示したグプタ朝時代のパワーヤー遺跡の彫刻が所蔵されており、そこには舞人を中心に8人の楽師が床面に腰を下ろして演奏している様子が描かれ、楽器は7弦の弓形ハープや五弦琵琶、また一対の太鼓等が用いられている。また大英博物館においても、楽師が彫刻された同時代のテラコッタ【図3】を確認することができる。

【図3】グプタ朝時代の楽師
〔5世紀頃、発掘遺跡不明、大英博物館所蔵〕画像提供:大英博物館 ©Trustees of the British Museum
 



 こうした図像資料と並び、グプタ・ヴァルダナ朝時代には、サンスクリット語で書かれた音楽関連の文献も整い始め、当時の音楽や楽器を知る道標となる。そうした古代の文献中では、『ナーティヤ・シャーストラNāţyaśāstra』(前2~7世紀)が、その後の『ブリハッデーシー Brhaddesī』(5~7世紀)等と並び、特に重要な位置を占める。

 聖者バラタが説いたとされる演劇理論書『ナーティヤ・シャーストラ』は、成立年代に関しては紀元前2世紀~紀元後7世紀までと諸説があるが、演劇に関与する複数の人々の口伝が何世紀にも渡って徐々に集約されたものと考えられる。『ナーティヤ・シャーストラ』では演劇や舞踊、音楽に関する事柄が、賢人達と聖者バラタとの問答形式を通して展開され、楽器や音楽理論についての論考も数多く含んでいる。例えば、楽器は発音体によって、「タタ tata」(弦鳴楽器)、「アヴァナッダ avanaddha」(膜鳴楽器)、「ガナ ghana」(体鳴楽器)、「スシラ  susira」(気鳴楽器)の4種類に分類されることが記述され、19世紀末の西洋の音楽学者V.マイヨンはそこから発想を得て、四綱楽器分類法を編み出し、それが現在のザックス=ホルンボステル楽器分類法へと繋がった。

 『ナーティヤ・シャーストラ』では、全36章中、第28章 器楽全般・旋法の機能、第29章 装飾法・弦鳴楽器、第30章 気鳴楽器、第31章 ターラ  tāla(リズム周期)の機能、第32章 ドゥルヴァー dhruvā(歌曲)と劇音楽、第33章 膜鳴楽器、以上が音楽に関する記述であり、その他、第19章 韻律法や第27章 演劇の成功法等にも、音楽に関連する論考が見受けられる。

 当時の旋法理論には、今日のインド古典音楽で旋法を意味する「ラーガrāga」という言葉は登場しない。そこでは、1オクターヴを「シュルティ śruti」と呼ばれる22の微分音に分割し、7つの音階音である「スヴァラ svara」がそこに配置された。音階音の配置の違いによって2種類の基本音階「グラーマ grāma」を定め、主音を各音階音に順番に移動させることによって、各グラーマにつき7種、合計14種の実用音階が生まれた。そこから更に五音音階、六音音階というように音階音を選択することで、無数の旋法を生み出す扉が開かれた。また、人間には3種の発声器官、胸声・咽頭声・頭声があり、楽器も同様に3種の音域があると考えられ、これがインド音楽で用いられる3つの「サプタク saptak」(低音域・中音域・高音域オクターヴ)の概念になった。

 こうした楽器分類や音楽理論と並び、古代インドの芸術世界を知る上で不可欠なのが、「ラサ rasa」という美的概念である。演劇、舞踊や音楽の諸要素はラサを表象するものと考えられ、『ナーティヤ・シャーストラ』の中では、楽音や旋法といった音楽的要素や、上演・演奏の時間帯や季節が、8種のラサ(愛しさ、歓喜、怒り、悲愴、英雄、驚異、嫌悪、恐怖)、及びラサを生起させる「バーヴァ bhāva」(8種の基本的感情、33種の一時的感情、8種の生理的反応が包含される)と細かく結びつけられた。

3-5 古代楽器の復元へ

 ここまで図像資料や文献資料を頼りに、古代インドの音楽や楽器の様相を中心に探ってきた。多様な異民族が次々とインドの大地を舞台に侵入や興亡を繰り返し、東西の文化が混成し合う中で、ヴェーダのように今日までその伝統を継承している文化もあれば、既に廃れてしまった音楽文化や楽器も少なくない。

 『ナーティヤ・シャーストラ』の弦鳴楽器の章に記された弓形ハープもその一例で、古代の仏教彫刻には複数確認されているが、今日では完全に消滅してしまった。そこでインド国立芸術研究所サンギート・ナータク・アカデミーでは、古代の弓形ハープである7弦の「ヤズ yazh」や、サーンチーやアマラーヴァティーの仏教彫刻に見られた48弦のヤズの復元楽器を製作し、古代の楽器を再現する取り組みも行われている。


(参考文献)
・ 上村勝彦『インド古典演劇論における美的経験』東京:東京大学出版会、1990年。
・ ウォルター・カウフマン『人間と音楽の歴史・古代インド』東京:音楽之友社、1986年。
・ D.D.コーサンビー『インド古代史』山崎利男訳、東京:岩波書店、1966年。
・ 竹田修他編『新潮古代美術館9・静かなるインド』東京:新潮社、1981年。
・ 田辺勝美他編『世界美術大全集・東洋編第15巻中央アジア』東京:小学館、1999年。
・ 柘植元一、植村幸生編『アジア音楽史』東京:音楽之友社、1996年。
・ 辻直四郎『インド文明の曙―ヴェーダとウパニシャッド』東京:岩波書店、1967年。
・ 日本経済新聞社編『インド古代美術展』図録、日本経済新聞社、1964年。
・ 肥塚隆、宮治昭編『世界美術大全集・東洋編第13巻インド(1)』東京:小学館、2000年。

・ Rangacharya, Adya. The Nātyaśāstra. New Delhi: Munshiram Manoharlal, 1996.
・ Sangeet Natak Akademi. Vādya-Darśan. New Delhi: Sangeet Natak Akademi, 2002.
・ Tarlekar,G.H. The sāman chants: a review of research. Baroda: India Musicological Society, 1985.

目次 

  1. 総論
  2. 古代メソポタミアからササン朝ペルシアに至る音楽文化
  3. 古代インドの音楽と楽器
  4. 胡楽の時代:隋・唐の宮廷における西域音楽
  5. 日本と朝鮮に及んだシルクロード音楽文化
  6. 南アジアの宗教音楽:ヒンドゥーとスーフィズム
  7. イスラーム全盛期の西アジアおよび中央アジアの音楽
  8. ウイグル音楽の歴史と現在:十二ムカームを中心に
  9. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:クルグズ
  10. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:トルクメニスタン
  11. 近代西アジアの音楽とヨーロッパ音楽との交渉:トルコを中心に
  12. 環地中海の音楽文化とシルクロード:古代ギリシアとローマ
  13. 環地中海の音楽文化とシルクロード: 近代ギリシアとオスマン・トルコ
  14. 環地中海の音楽文化とシルクロード:イタリアとオスマン・トルコ
  15. 環地中海の音楽文化とシルクロード:セファルド系ユダヤ人音楽家の活動
  16. シルクロード探検史に見る音楽資料
  17. ワールドミュージックとしての新しい「シルクロード音楽」の創出

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