現在のトルコ共和国が位置するアナトリアとも呼ばれる小アジアは、古来よりシルクロードをはじめとする東西と南北の交易の路が交わる要衝であり、幾多の民族が興亡した地としても知られる。元来この地は、11世紀頃まではビザンツ帝国の領土に組み込まれており、ギリシア語を母語とするギリシア正教徒が優位をしめていたが、東方よりイスラームを奉じトルコ語を母語とするトルコ人が侵攻してきたことで、徐々にイスラーム化が進んでいった。
陸の東西交易路により絹や蚕卵が西方にもたらされたように、東方起源の音楽もまた、中央アジアを故郷とするトルコ人の西進によってこの地にもたらされた。「タブルハーネtabılhane 」(あるいはナッカーレ・ハーネ)と呼ばれる楽隊もそのひとつである。戦乱の世にあって、音楽が士気を高めるために欠かすことができない重要な役割を演じた中、中央アジアのトルコ系の国家で生まれたとされるタブルハーネは、ダウルdavul (筒型の両面太鼓)、ズルナzurna (嗩吶、複簧の竪笛)、ボルboru (トランペット)そしてズィルzil (シンバル)から成る楽隊として戦場で大音響を響かせ、敵方の戦意を挫いた。このタブルハーネが、セルジューク朝を経てオスマン朝へ受け継がれ、後にヨーロッパにも影響を与えたオスマン帝国の軍楽隊メヘテルへと結びついてゆくのである。
11-1 オスマン帝国のイェニチェリ軍団と軍楽隊メヘテル
現在のトルコ共和国の前身、オスマン帝国(1300頃-1922)は、1453年にビザンツ帝国を破り、東洋と西洋、キリスト教世界とイスラーム教世界を結ぶ世界屈指の都イスタンブル(旧称コンスタンティノープル)を手中におさめた【図1】。東方や西方から往来する文物や人々を受け入れ、キリスト教徒やセファルド系ユダヤ人など多様な民族や宗教の存在と自治を認めたオスマン帝国は、スルタン(君主)を頂点とする中央集権体制を確立し、強大な軍事力を保持していたことでも知られている。その中心的役割を果たしたのがイェニチェリyeniçeri と呼ばれる親衛歩兵軍団であった。イェニチェリはオスマン軍の最精鋭部隊としてスルタンの護衛、首都の治安維持等にあたり、帝国の地中海世界への版図拡大の一翼をになっていった。
このイェニチェリが擁し、後にヨーロッパの音楽に大きな影響を与える役割を果たしたのが、先述のタブルハーネの系譜を受け継ぐ軍楽隊メヘテルmehter (メヘテルハーネmehterhane とも云われる)である。ヨーロッパにおいてはヤニチャーレン・ムズィーク(「イェニチェリ音楽」)あるいはバンダ・トゥルカ(「トルコ音楽」)と称されたメヘテルは、絢爛豪華な衣装に身を包み、勇壮な音楽を奏で戦場のイェニチェリの士気を高めた。その楽器編成は、ズルナとダウルを核として、ボル、ズィル、ナッカーレnakkare (二つ一組の小型の鍋型太鼓)、キョスkös (ティンパニ)、チェヴギャンçevgan (三日月形の飾りに鈴やベルがつけられた錫杖の一種)などから構成された【図2】。
【図1 現在のイスタンブル】(撮影:濱崎友絵)
【図2 メヘテルの行進】(1720年、イスタンブル、トプカプ・サライ博物館蔵)
メヘテルを保持することができたのは、スルタンをはじめとするオスマン軍の高位高官に就く者たちであった。それぞれの位階によって率いることのできる楽隊員の人数も定められており、たとえば軍司令官は各楽器7名ずつから成る楽隊を、より位の高い宰相は各楽器9名ずつからなる楽隊を率いることが許されていたといわれる。それに対し最高権力者スルタンの場合は、各楽器9名ずつ、ないし12名ずつから成る大規模なメヘテルを擁することができたという。
このような軍隊の規模や権威を象徴する楽器として特に重要視されていたのが、ティンパニの原型となったキョスである。現在イスタンブルの軍事博物館には、スレイマン1世(在位1520-1566)が戦場で用いたとされるキョスが所蔵されており、その鼓面は直径130センチ、胴の深さは120センチとなっている【図3】。たいてい二つ一組で奏されるキョスには大きさの異なるさまざまなタイプがあり、楽隊の行進の際には小さいものは馬に、大きいものは駱駝や象に乗せられ二本のバチで打奏された。16世紀半ばにイスタンブルのスルタンの居城、トプカプ宮殿に仕えたジェノヴァ出身のジョヴァンニ.A.メナヴィーノは、駱駝の背に乗せられたキョスの大きさと音量に驚き、その響きは人々に大地が震えていると思わせるほどだと書き残している1 。このキョスが1514年のチャルドランの戦いでは300台、1526年のモハチュの戦いでは500台、使用されたというのであるから2 、その数がどの程度信用できるものかどうかはともかくとして、戦場にはメヘテルが奏でるズルナの鋭い音色やシンバルの華やかな金属音とともに、ダウルやキョスの雷鳴のような音と震動が響き渡り、敵方陣営を驚愕、喪胆させたのではないかと想像される。
【図3 キョス】(イスタンブル軍事博物館蔵、撮影:濱崎友絵)
メヘテルは戦場での演奏のほかに、ネヴベトnevbet と呼ばれる儀礼的な奏楽やムスリムへの礼拝時刻を告げるための演奏もおこなっていた。ネヴベトは、一日五回の礼拝での演奏や、宮廷や居城など特定の場所や時間におこなわれた奏楽のことを指すが、これはもともとタブルハーネが担っていたものであり、オスマン帝国内のみならず、アジアのイスラーム諸国において広く浸透していた慣習でもあった。
彼らが奏でた音楽はトルコ伝統音楽のマカーム(旋法体系)とウスール(リズム型)に基づいており、これはイスラーム文化圏一帯でもちいられる音楽システムと共通する〔第7章、7-2参照 〕。軍楽で使用されたマカームは、150ほどあるうちの約25種類といわれ、ブセリクやチャルギャハ、ヒュセイニ、ラストなどが含まれた。またウスールも楽隊が歩調を合わせ行進するため、ソフィヤンsofyan やデヴリ・ケビールdevri-kebir など2拍子系が多かったといわれている3 。
11-2 メヘテルのヨーロッパ軍楽への影響
メヘテルの響きは、オスマン帝国の西方への侵攻とともにヨーロッパへ伝わった。15世紀半ばにはバルカン半島一帯を、16世紀には中央ヨーロッパ、北アフリカを掌握したオスマン帝国は、1529年、1683年と二度にわたりウィーンを包囲し、ヨーロッパに「オスマンの衝撃」をもたらす。火砲の扱いに習熟し一糸乱れず行動するイェニチェリ軍団とそれにともなったメヘテルの音楽は、西欧の人々に恐れを与えると同時に興味をかきたてる存在となり、この「異国」の音楽は次第にヨーロッパ各国の宮廷や軍楽に取り込まれてゆくことになった。
1720年代初頭、ポーランド王アウグスト2世は、平和外交を展開していたスルタン、アフメト3世(在位1703-1730)より完全編成のメヘテルを贈られ、さらに1725年にはロシアの女帝アンナも、ズルナやダウル、キョスなど12~15名の奏者からなるオスマン軍楽隊をもらい受けた 。これに続き、オーストリアでオスマン式軍楽が採用され、プロイセンでもイスタンブルから本場の楽隊員が雇われることになる。世紀末には海を隔てた英国にもメヘテルの影響が及び、シンバルやダウル(いわゆるバス・ドラム)などの楽器が採用されてゆく。もっとも英国では、こうしたメヘテルの楽器は、派手な衣装とターバンをまとったアフリカ出身の黒人奏者によって演奏されたことが知られている。ヨーロッパの軍楽隊では、オスマン軍楽で使用されたシンバルなどの打楽器に加え、メヘテルの華やかな響きを模倣するためトライアングルやタンバリンなどの楽器も取り入れられ、これらが後にブラスバンドの楽器として広く定着してゆくことになった。
11-3 ヨーロッパにおける「トルコ風(アッラ・トゥルカ)」の流行
17世紀後半から18世紀中葉にかけてメヘテルの影響がヨーロッパ諸国の軍楽に色濃く反映されていった頃、オペラやオーケストラなどの音楽作品にもメヘテルの楽器が使われるようになっていった。「トルコ風(アッラ・トゥルカ)」音楽の流行である。18世紀後半に活躍したドイツ人音楽家であり詩人のクリスティアン・F.D.シューバルト(1739-1791)は、オスマン軍楽を評して「これほど確固とした、すべてを圧倒するようなビートが要求される音楽はほかにない。各小節の最初のビートは新しく勇壮に刻まれるため、歩調を乱すことは実質的に不可能である」と述べ、当時のヨーロッパの人々を惹きつけていたものが、メヘテルの楽器の華やかな音色とともに明確に刻まれるビート(拍子)にあったことを指摘している。
シューバルトが述べたような明確な拍子感は、「トルコ風」として書かれた多くの楽曲に共通して見られる特徴のひとつである。たとえばトルコ風作品として知られているモーツァルト(1756-1791)の『ピアノソナタ イ長調 K.331』の第三楽章(「トルコ行進曲」)には、楽譜冒頭に“Alla Turca(アッラ・トゥルカ)”と指示が書き添えられ、右手の細かな旋律型と対照的に左手ではほぼ一貫して八分音符のリズムが刻み続けられる。また同じくモーツァルトのトルコ風オペラとして知られる『後宮からの誘拐』(1782)でも、シンバルやピッコロ、トライアングルなどの楽器が随所に用いられ「トルコ風」の響きが表現されている。
こうした「トルコ風」の音楽作品は、18世紀中葉から19世紀を中心に多くの作曲家の手により生み出されていった。たとえば、グルック(1714-1787)の『思いがけないめぐり会い、またはメッカの巡礼』(1764)、ハイドン(1732-1809)の『交響曲第100番(「軍隊」)』、オペラ『薬剤師』(1768)や『思いがけないめぐり会い』(1775)、ベートーヴェン(1770-1827)の『アテネの廃墟』より「トルコ行進曲」や『交響曲第九番』第四楽章「合唱」(1824)、イッポリトフ=イワーノフ(1859-1935)の『コーカサスの風景』より「サルダールの行列」などである。
これらの作品に共通する音楽的特徴として指摘されるのが、シンバルなどの打楽器の採用、ユニゾンでの和声進行、鋭い音色を出すためのピッコロの使用、反復音の頻出、デュナーミク(強弱)の突然の転換などである。しかしながらこれらの特徴は、あくまで西欧人のイメージとしての「トルコ風の音楽」であり、実際のオスマン軍楽の音楽的特徴とは必ずしも一致しない。そこに「オリエンタリズム的まなざし」が深く関係していることは指摘しておかねばならないだろう。
11-4 トルコにおけるメヘテルの現在
このようにしてヨーロッパに「トルコ風」の流行をもたらしたオスマン軍楽であったが、19世紀前葉からオスマン帝国で開始されたタンズィマート(西洋化改革)によって、メヘテルは歴史の表舞台から姿を消すことになった。1826年にイェニチェリ軍団が廃止され西洋式軍隊が創設されたことで、メヘテルもまた、ヨーロッパをモデルとした新軍団にふさわしい西洋式軍楽隊に取って代わられることになったのだ。こうしてメヘテルは西洋近代化の流れとトルコ・ナショナリズムの高まりの中で、二度の廃止(1826年、1935年)と二度の復興(1911年、1952年)を経てゆくことになる。
こんにち、イスタンブルの軍事博物館で連日観ることのできるオスマン軍楽隊の演奏は、このメヘテルの数百年に渡る歴史とシルクロードとのつながりを、今の我々に伝えているのである。【図4】
【図4 現在のメヘテル】(イスタンブル軍事博物館、撮影:濱崎友絵)
VIDEO
【動画1:現在のメヘテル『エスキ・オルドゥ・マルシュ(旧軍隊行進曲)』】(撮影:濱崎友絵)
(脚注)
1 . Bülent Aksoy, Avrupalı Gezginlerin Gözüyle Osmanlılarda Musıki , İstanbul: Pan Yayıncılık, 2003, p.32.
2 .Şefik Kahramankaptan, Mehter’den Alaturka’ya , Ankara: ark yayınları, 2009, p. 33.
3 .Ahmet Say, “Mehterhane,” Müzik Ansiklopedisi 3 . Ankara: Sanem Matbaas, 1992. p.808.
(参考文献)
新井政美『オスマンVS.ヨーロッパ』東京:講談社、2002年。
柴田南雄・遠山一行監修『ニューグローヴ世界音楽大事典』、東京:講談社、1993-95年。
鈴木董『オスマン帝国』、東京:講談社現代新書、1992年。
柘植元一『世界音楽への招待』東京:音楽之友社、1991年。
柘植元一、植村幸生編『アジア音楽史』東京:音楽之友社、1996年。
Müzik Ansiklopedisi .s.v. “Tabılhane.” Vol.4, p.1161.
Öztuna, Yılmaz. Türk Musikisi Kavram ve Terimleri Ansiklopedisi. Ankara: Atatürk Kültür Merkezi Başkanlığı, 2000.
Sanlıkol, Mehmet Ali. Çalıcı Mehterler. İstanbul: Yapı Kredi Yayınları, 2011.