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5.日本と朝鮮に及んだシルクロード音楽文化植村幸生(東京藝術大学教授)

5-1 「音の正倉院」としての日本雅楽

 日本の雅楽を「音の正倉院」あるいは「生きた正倉院」と呼ぶ人がいる。この表現は日本に伝わる雅楽の歴史的・音楽的性格を、非常によく表しているといってよい。雅楽の楽曲、楽器、そして音楽理論が直接的に中国および朝鮮半島からもたらされただけでなく、その淵源をたどれば、西域を経由したインド、ペルシアの音楽文化に行き着くからである。もっとも、現代の雅楽が伝来当時の姿をそのまま保っているという訳ではない。まず平安時代にはいくつかの楽器が廃れ、また音楽家の組織やレパートリーも大きく変わった。応仁の乱(1467-1477)では京都が荒廃し、多くの伝承を失ったといわれるが、江戸時代には雅楽再興の機運もあった。さらに明治初年には『明治選定譜』の編纂に集約されるような、音楽家とレパートリーの大きな改変があった。それでも千二百年の長きに渡って雅楽が一貫して存在し続け、音楽伝統として継承されてきたという事実は充分に稀有なことである。

 雅楽は広い意味では「うたもの」すなわち声楽の曲種を含んでいるが、一般的に雅楽と言った場合、狭義の器楽と舞踊のレパートリーがそれにあたる。これは大きく二つに区分される。すなわち唐楽と高麗楽(こまがく)である。文字の上では唐楽が中国系、高麗楽が朝鮮系となるが、これは上に述べた改変の結果による区分であって、個々の楽曲をみると、さらにその曲の由来が複雑であることがわかる。その一例に《抜頭》(ばとう)という現行曲がある。《抜頭》は唐楽に属するが、舞は右方と左方の二様式がある。この曲は大仏開眼会(752)に際して「林邑楽」の一つとして上演された曲であることがわかっている。林邑(りんゆう)とは現在のヴェトナム南部に位置したチャンパ王国を指す。この曲を日本に伝えた人物を、林邑の僧侶仏哲(ぶってつ)とする説、天竺の婆羅門(ばらもん)僧正(大仏開眼会で導師をつとめた高僧)とする説がある。いずれにせよ、この音楽がインドに起源をもち、あるいは林邑を経由地として日本に伝来してきたことがうかがわれる。

 一方、唐代中国では、散楽と呼ばれる曲芸および歌舞劇ジャンルの一演目として《撥頭》が含まれていた。『通典』は、この曲が西域に由来し、胡人が猛獣に食われたので、その子が猛獣を探し出して殺したことを舞に表現したものであると述べている。その名称からして、《抜頭》と深い関係にある曲であったことは明らかであろう。

 《抜頭》の舞には、髪を振り乱した長髪の鼻の長い人物の面が用いられる。このような鼻をもった面は、後で述べる伎楽にもしばしばみられるもので、とくに西域系の異国人のイメージを伝えるものである。この《抜頭》という曲名に関して、高楠順次郎は「リグ・ヴェーダの中にあるペドゥ王の馬パイドゥヴァを表したものである」と主張した。ペドゥ王が神に与えられた白馬によって王を襲おうとした蛇を倒した、という神話がリグ・ヴェーダにある。そして《抜頭》という音はペドゥを音訳したものである、と高楠は主張する。そればかりではなく、舞の姿が馬を表している、つまり長い髪は馬のたてがみをあらわしているのであり、なおかつ舞手が持っているバチは、蛇を殺す武器を、そしてこの舞のすばやい動きは馬の動きをあらわしていると論じた。田邉尚雄は、この説に全面的に賛同し、さらに《抜頭》の番舞(つがいまい)、つまり習慣的にペアをなして上演される曲である《還城楽》(げんじょうらく)においては蛇の置物が用いられるという事実を加えて、この両曲が、リグ・ヴェーダが伝えるところの馬と蛇の戦いを表現したものと主張した。もっとも、《抜頭》とリグ・ヴェーダとの関係を述べた田邉と高楠の主張はその後、充分な議論の対象とはならなかったため、この説は未だ推測の域を出ない。しかし《抜頭》が日本の雅楽に対するインドの影響を示す一例であることは疑いない。ただしその経路がヴェトナムを経由する海のシルクロードか、内陸ルートすなわちシルクロードを経由しているのかは断定しがたい。先に挙げた散楽《撥頭》が西域起源であるとする説も考慮するなら、両方のルートがあり得るだろう。

5-2 正倉院の楽器:五絃琵琶と箜篌

 「音の正倉院」たる雅楽だけでなく、正倉院そのものもシルクロードと関連した音楽文化を雄弁に物語っている。正倉院に保存された十八種七十五点(残欠を含む)に及ぶ楽器のなかでも、五絃琵琶(螺鈿紫檀五絃琵琶)は、その見事な装飾と均整美によって見る者を圧倒するが、この五絃琵琶こそ、前項で述べた胡琵琶に相当するインド系直頸琵琶の、現存唯一の実物である。演奏時にバチがあたる部分(捍撥)に、ラクダに乗った人物が曲頸の琵琶を弾く姿が螺鈿であしらわれているのも、この楽器が西域に由来することを強くイメージさせる。

 日本には、この五絃琵琶のための楽譜もまた残されている。すなわち、陽明文庫(近衞家伝来の文庫)に所蔵され『五絃琴譜』の名で知られる古楽譜である。もっとも『五絃琴譜』という名称は正しくないので、音楽学者たちは単に『五絃譜』などと呼んでいる。成立は平安時代中期以降とみられるが、所収曲は奈良時代末期を下らない。所収二十二曲は、大半が八世紀ごろに唐の宮廷で行われた法曲・胡楽であったとみられる。唐で盛んに行われた胡楽すなわち西域系音楽が日本に伝来していたわけである。ただし二十二曲中、後の日本の雅楽のなかに同名曲が見られるものは七曲に過ぎない。『五絃譜』の解読研究は、林謙三によって先鞭がつけられ、スティーブン・ネルソンによって新たな解釈が示されている。

 正倉院には、「瑇瑁螺鈿箜篌」と称する、箜篌(くご)の残欠も保存されている。箜篌すなわちハープもまたシルクロードを通じてユーラシアの各地に広まった主要な楽器である。日本ではこの楽器を「百済琴」と呼んだ。日本には百済を経由してこの楽器が伝わったことが推測される。しかし、『通典』など中国史料には箜篌が百済に存在したことを記すものの、現在の韓国に箜篌が伝わらないのは無論、朝鮮側の史料でも、『通典』の引用以外には百済における箜篌の存在を裏付ける記録はない。

5-3 古代朝鮮の音楽・芸能とシルクロード

 箜篌に限らず、古代朝鮮にもシルクロードを通じた西方の音楽・芸能文化が影響を及ぼしていたことは、日本ではそれほど知られていない。新羅、百済、高句麗の歴史書である『三国史記』の「雑志 楽」には、新羅を中心とする三国の音楽について概略的な記述がある。そのなかに崔致遠(チェ・チオン)という人物が詠んだ「郷楽雑詠五首」という漢詩があり、そこに描かれた五つの芸能(五伎)は、当時の新羅に西域系芸能の影響が強く及んでいたことをうかがわせる。五首の題目はそれぞれ「金丸(きんがん)」「月顚(げってん)」「大面(だいめん)」「束毒(そくどく)」「狻猊(しゅんげい)」であるが「月顚」はホータン、「束毒」はソグドを意味する。この二つは胡人が登場する仮面舞踊のようであるが、その題名からして中央アジアとの関連が明白である。ちなみに日本雅楽のうち高麗楽に「進走禿(しんしょうとく)」「退走禿(たいしょうとく)」の二曲が現行するが、題名の面で「束毒」とおそらく何らかの関連があるだろう。五伎のひとつ「狻猊」は獅子舞を意味するが、「遠く流沙を渉り万里を来たる」というその描写は、白居易の漢詩「西涼伎」に影響されているかもしれないが、この芸能が西域由来と信じられたことを物語る。獅子舞に相当する芸能は現在の韓国にも、仮面劇(タルチュム)の一部などとして数種類が伝わる。一方、平安時代以前の成立といわれる『信西古楽図』(しんぜいこがくず)と称する巻物があり、そこに描かれた獅子舞のうち一体の獅子が「新羅狛」と名付けられている。今日の韓国、中国あるいは沖縄で一般的な二人獅子の系統とみられ、十一名からなる伴奏楽隊を伴っている。「狻猊」に連なる新羅の獅子舞はあるいはこのような芸態であっただろうか。【図1 信西古楽図 東京藝術大学所蔵】
 
 
 【図1 信西古楽図】東京藝術大学所蔵

 朝鮮半島を経て古代日本に伝来した芸能である「伎楽」にも、西域からの文化的影響をみてとることができる。伎楽は仏教儀礼に伴って演じられたコミカルな仮面黙劇で、いくつかの寸劇から構成されていたようである。612年に百済の味摩之という人物が呉国の伎楽を日本に伝えたと『日本書紀』にある。しかし中国南方の呉国がその発祥地であるとみるのは困難であり、インド、チベット、中央アジアの各地で行われていた仮面舞踊にその根源を求めるべきであろう。「酔胡王」「酔胡従」「崑崙」「波羅門」などのキャラクターの名称と仮面がそれを裏付ける。また伎楽面(正倉院、法隆寺などに伝わる)が顔だけをおおう仮面ではなく頭からかぶるフルフェイス型であることは、現在の韓国の仮面劇よりもむしろ、チベットの仮面舞踊チャムとの共通性をうかがわせる。伎楽は日本では鎌倉時代以降ほとんど衰退したが、韓国に残る民間仮面劇のなかに伎楽との共通性をみいだす説もある。

 朝鮮半島における西域系芸能の痕跡は、つづく高麗時代まで及んだ。高麗の王が行幸する際の大規模な行列である衛仗には、高昌伎、安国伎、天竺伎が随行したと『高麗史』に記述がある。前項で述べたようにこれらは唐代十部伎に属する楽舞の名称であった。しかし高麗の衛仗におけるこれらの楽舞の具体的な姿は不明である。第二の例は、李穡(1328-1396)の「驅儺行」という詩である。驅儺あるいは儺礼は、宮中でも民間でも行われた厄払いの儀礼であるが、高麗の宮廷における儺礼で、厄払いの本体行事のあとに歌舞百戯が演じられたこと、そのなかに西域胡人の仮面戯と思われるものが含まれていた。第三の例は高麗末期の俗謡《双花店》である。「双花」とは餃子または饅頭を意味し、それを商う「回回(フェフェ)アビ」すなわちイスラム教徒の男性が女性を誘惑する、という歌詞である。《双花店》およびその一部改作である《双花曲》は、朝鮮時代の楽譜『時用郷楽譜』ほか数種の文献を通じて今日に伝わる。音楽的に西方の特徴を担っているとはいえないが、西方世界との人的交流が十四世紀の朝鮮半島に及んでいた事実が音楽文化の形をとってとどめられた一例といえよう。


(参考文献)
岸辺成雄『古代シルクロードの音楽:正倉院・敦煌・高麗をたどって』東京:講談社、1982年。
岸辺成雄『唐代音楽の歴史的研究 楽制篇上巻・下巻』(初版)東京:東京大学出版会、1961年。(復刻版)大阪:和泉書院、2005年。
岸辺成雄『唐代音楽の歴史的研究 続巻 楽理篇 楽書篇 楽器篇 楽人篇』大阪:和泉書院、2005年。
田邉尚雄『東洋音楽史』東京:雄山閣、1930年。
林謙三『東アジア楽器考』東京:カワイ楽譜、1973年。(復刻版)東京:カワイ出版、2013年。
東洋音楽学会編『唐代の楽器』東京:音楽之友社、1968年。(東洋音楽選書)
宋芳松『増補韓国音楽通史』ソウル:民俗苑、2007年。[本文韓国語]
李杜鉉『朝鮮芸能史』東京:東京大学出版会、1990年。
高楠順次郎『高楠順次郎全集 第九巻』東京:教育新潮社、1978年。


目次 

  1. 総論
  2. 古代メソポタミアからササン朝ペルシアに至る音楽文化
  3. 古代インドの音楽と楽器
  4. 胡楽の時代:隋・唐の宮廷における西域音楽
  5. 日本と朝鮮に及んだシルクロード音楽文化
  6. 南アジアの宗教音楽:ヒンドゥーとスーフィズム
  7. イスラーム全盛期の西アジアおよび中央アジアの音楽
  8. ウイグル音楽の歴史と現在:十二ムカームを中心に
  9. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:クルグズ
  10. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:トルクメニスタン
  11. 近代西アジアの音楽とヨーロッパ音楽との交渉:トルコを中心に
  12. 環地中海の音楽文化とシルクロード:古代ギリシアとローマ
  13. 環地中海の音楽文化とシルクロード: 近代ギリシアとオスマン・トルコ
  14. 環地中海の音楽文化とシルクロード:イタリアとオスマン・トルコ
  15. 環地中海の音楽文化とシルクロード:セファルド系ユダヤ人音楽家の活動
  16. シルクロード探検史に見る音楽資料
  17. ワールドミュージックとしての新しい「シルクロード音楽」の創出

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