19世紀ヨーロッパのオリエンタリズムは、シルクロードの文物への関心に拍車をかけた。19世紀後半から20世紀初めにかけてロシアのセミョーノフやプルジェワルスキー、スウェーデンのヘディン、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、ドイツのル・コックとグリュンヴェーデルらが率いたヨーロッパ列強のシルクロードの探検隊は、先を争って古代遺跡や千仏洞に埋もれていた古代経文や壁画の蒐集を行った。そしてわが日本の大谷探検隊も1902年にこの競争に参加したのである。
探検隊の発掘調査の収穫は、あらゆる手段を尽くしてヨーロッパやアメリカ(僅かながら日本にも)に運ばれた。したがって、シルクロードの遺物、美術工芸品、古文書のとりわけ良質なものは、今日シルクロードでは見ることができない。大半がロンドンやパリやベルリンの博物館や美術館そして図書館に所蔵されているからである。
しかし、シルクロード探検隊に音楽の専門研究者が加わることは稀であった。シルクロードの文化を音楽の側面からとらえようとする視点は、未だなかったからである(比較音楽学が誕生したのはようやく1885年であった)。しかし、シルクロードの探検家たちが西洋にもたらした考古学的遺物や古文書や美術工芸品の中には、期せずして音楽資料として価値の高いものが少なからずある。ここではそうした資料に焦点をあてて、それらが人類の音楽研究にもたらした意義について略述する。
16-1 楽器の残欠・舞譜
オーレル・スタインは1900年から43年までの間に、四次にわたって新疆、チトラル、フンザ、パミール、サマルカンドなどを調査、さらにイラン考古学調査旅行をも率いた。彼のコレクションは膨大できわめて多様であるが、とりわけ音楽文化に関心をもって蒐集されたものではない。
スタインの将来品の中で注目すべき音楽資料の一つは、ニヤ遺跡の廃屋から発掘された長棹リュートの残欠(転軫を含む棹の部分、長さ43.5cm)である。現在大英博物館で保存されているが、3世紀のものと推定され、糸蔵に穿たれた孔の数から四弦の楽器であったらしい。三つの転軫が残されている。弦の断片および可動フレットの一部が残されている(Whitfield
2004, fig.203を参照)。
今一つは、「敦煌舞譜」でスタインが第二次探検(1906)で敦煌莫高窟において王道士から購入した古文書の一つである(Stein 5643)。大英博物館のカタログには単に “Tables of Musical Notation”と解題されていて、これが唐代の俗舞譜(舞踊譜)であるとは認識されていない。林謙三の解読によれば、このスタイン将来の「敦煌舞譜」は二年後にペリオが購入した「敦煌舞譜」(後述)と同系の舞譜であり、「両本の間には、わずかの表現の差のあるものも認められるが、根本的には一つであることは疑いを容れない」のである(林, 1969: 458)。
16-2 壁画
ドイツ・トゥルファン探検隊は1902年から14年間、四回にわたりトゥルファン、クチャ、カラシャール、ハミを調査した。A. グリュンヴェーデル (1856-1935)とA.
ル・コック(1860-1930)がこの探検隊を率いた。ドイツ探検隊は新疆から多数の壁画や古文書を蒐集してベルリンに持ち帰り「保護」した。とりわけ、天山南路北道(西域北道)の仏教遺跡から切り取った壁画など絵画資料の中に、音楽資料として重要なものが少なからず見られる。
その一つは、クチャの西方約65kmに位置するキジル石窟から採取された飛天図で、円形の共鳴胴をもつ長棹リュートが克明に描かれている。これはインド=イラン様式の壁画で、後7世紀前半のものと推定される。リュートには四弦が描かれていて、長い棹は頭部に向かって次第に細くなり、飛天は左手人差し指と親指で挟みもった小さな撥で弦をはじき(左利きである)、右手は棹の頭部までいっぱいに伸ばして、親指と人差し指を転軫にかけて調弦をしているように見える(ベルリン国立インド美術館所蔵)。
従来、円形の共鳴胴をもつリュート(琵琶)は古代中国の阮咸が代表的で、このタイプの楽器は中国起源であると言われてきた。しかし、ガンダーラ美術の影響を濃厚に見せるこのキジル石窟の壁画に、円形胴の長棹リュートが描かれていて、さらにガンダーラ彫刻にこれと同一の四弦の長棹リュートが見られる(例えば、ディール博物館蔵の「クシャン兵士と楽人」、アンダンデリー出土、2~3世紀)ので、これを中国の阮咸と同系統と断定するのは慎重でなければならない。
16-3 舎利容器・衆人奏楽図
大谷探検隊が将来した西域美術工芸品の中で、音楽資料として重要なものが二点あげられる。第一は、クチャの東北に位置するスバシの仏教遺跡(吉川小一郎晩年の証言によれば、クムトラのストゥーパ)から発掘された舎利容器である。6~7世紀のものと推定されるが、直径約40cmの円筒形の身と円錐形の蓋からなり、密陀絵で彩色されている。現在、東京国立博物館で保管されている。音楽資料としての価値は、この蓋と身に数多くの楽器とこれらを奏でる楽人が描かれていることである。
蓋の表面には四つの連珠文がシンメトリカルに配され、それぞれの中に奏楽する有翼天使が描かれている。楽器は曲頸四弦琵琶、竪笛(有簧の葦笛らしい)、直頸五弦琵琶、箜篌の四種類で、克明に描かれている。身の側面には二人の少年が担う棒に吊した大太鼓を両手にもった桴で打つ鼓手、箜篌奏者、銅鑼(?)奏者、排簫(?)奏者、先端が湾曲した桴を両手にもって肩から吊した小太鼓を打つ鼓手、および銅角奏者ら六名の楽人、華麗な装束をまとい伎楽面をつけた八名の舞人、幡のついた長い杖をもつ二名の先導、ほかに手拍子を打つ少年三名、合計21名の楽人舞人の行列が描かれている。これは当時クチャ地域で行われていた仏教音楽の様相を示すものと考えられる。
第二はトゥルファンの東北約40㎞のベゼクリク千仏洞第20号(現第39)窟から採取された壁画の断片「衆人奏楽図」(縦横106㎝余)である。10~11世紀頃のものと推定される釈迦涅槃図の一部である。これは釈迦の入滅を悲しむ仏教徒と、これを喜ぶ外道を描いた壁画で、この部分が切り取られた跡の前に立て札が置かれ「日本人がこの部分を盗み取っていった」と書いてある。ここには横笛、篳篥、一対の鈸(シンバル)、太鼓とその桴、長棹リュート(の棹の部分)が鮮明に描かれている。この部分には二人の女性楽師と四人の男性楽師が見えるが、深目高鼻、紫髯緑眼の楽師の表情は、当時の西域の奏楽を彷彿とさせる。
16-4 敦煌琵琶譜
P. ペリオ (1878-1954) は1906年から1909年にかけて中央アジア探検を行ったが、1908年敦煌の莫高窟第17窟(蔵経堂)で大量の文書を調査し、約5000点に及ぶ古文書および150点余の美術工芸品を王道士から買い取りフランスに持ち帰った(ペリオ・コレクション)。その中に唐代の琵琶の楽譜25曲が含まれる、いわゆる「敦煌琵琶譜」(フランス国立図書館蔵、Pelliot
3808)、および唐代の俗舞の舞式を記した譜、いわゆる「敦煌舞譜」(フランス国立図書館蔵、Pelliot 3501)が音楽資料として重要である。
16-5 シュメールのリラとハープ
1922年から1934年にかけて、大英博物館と米国ペンシルヴァニア大学博物館が共同して南メソポタミア(バグダードの南東約350km)にあるウル遺跡の発掘調査を行った。C. L. ウーリーが指揮してウルの聖域の全容を明らかにしたが、われわれにとってとりわけ重要なのは、聖域の南端に位置するウルの王室墓地(16基の墓がある)から発見された数々の楽器の残欠である。
その白眉はシュメール人のリラである。女王プー・アビーの墓から9張のリラの残欠が出土した。木製部分は朽ち果てて金や銀や銅など金属部分が残っている。前2600-2350年頃(ウル第一王朝)の楽器である。これらの残欠からいくつかのリラが復元されている。今日、大英博物館に展示されている銀張りの牡牛の頭の装飾をもつ、いわゆる「銀のリラ」はその一つである。同じく金張りの牡牛の頭の装飾をもついわゆる「金のリラ」が復元されて、バグダードのイラク国立博物館に所蔵されている。もう一つ、舟底形の共鳴胴をもつリラが復元されてフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学博物館にあるが、この復元は疑問視されている。
この王室墓地から弓形ハープの残欠も出土していて、その数は3張であると考えられている。その中の一つは今日、大英博物館で「女王のハープ」として展示されているハープである。これは女王の墓の入り口で発見された残欠から復元されたものである。残欠の遺存状態から、殉死した従者が死の直前まで奏でていたと想像される。ウーリーは発掘時の残欠の状況から一種の「ハープ=リラ」を想定し、特異な形状のハープを復元したが、これはハープとリラの2張の楽器が押しつぶされたものを誤認したものと結論づけられた。現在大英博物館に展示されているハープは、印章に描かれた図像などを参照しつつ遺存状態のスケッチを再検証して、復元し直されたものである。もう一つは「銀のハープ」と呼ばれているもので、いわゆる「死の竪穴」から出土したものだが、現在はペンシルヴァニア大学博物館にある。
16-6 西北科学考査団報告書『モンゴルの音楽』
最後に、シルクロード探検隊の報告書の中で例外的に音楽が学術調査の中に含められた事例をあげておこう。スウェン・へディンが率いたスウェーデン=中国合同「西北科学考査団」の学術報告書第21号は『モンゴルの音楽――第一部東部モンゴル』と題されて、1943年に刊行された。これは中央アジアの学術調査の報告書としてはきわめて異色である。なぜなら、この報告書はデンマーク人ヘニング・ハスルント=クリステンセンが1928~1939年に新疆(カラシャール)で録音したモンゴル人(カラシャール・トルグート族)およびブリヤート人の伝統音楽の概説と歌詞の翻訳および採譜から成っているからである。
これが異例であることに配慮して、へディンはかなり長い序文をこの報告書に寄せて、モンゴルの民謡がチンギス・ハン以来の長い伝統を誇り、優れたアジアの音楽であり、報告書に含められる価値があることを力説している。モンゴル語の歌詞の翻訳はデンマークのモンゴル語学者カーレ・グレンベク、音楽と楽器の概説および五線譜による採譜はスウェーデンの音楽学者エルンスト・エムスハイマーの手になるものである。
(参考文献)
林謙三『雅楽――古楽譜の解読』(東洋音楽選書10)、音楽之友社、1969年。
䑓信祐爾「大谷光瑞と西域美術」『日本の美術』434、至文堂、2002年。
Stein, Marc Aurel. Ancient Khotan: Detailed Report of Archaeological Explorations in Chinese Turkestan, 2 vols. Oxford: Clarendon Press, 1907.
Whitfield, Susan. The Silk Road: Trade, Travel, Warand Faith.Chicago: Serindia, 2004.
Rashid, Subhi Anwar, Mesopotamien: Musikgeschichte in Bildern. Leipzig, VEB Deutscher Verlag fur Musik, 1984 (邦訳『人間と音楽の歴史、メソポタミア』音楽之友社、1985年)
Rimmer, Joan. Ancient Musical Instruments of Western Asia in the British Museum. London: The British Museum, 1969.
Haslund-Christensen, Henning et al. The Music of the Mongols. (Part 1: Eastern Mongolia, Reports from the Scientific Expedition to the
North-Western Provinces of China under the Leadership of Dr. Sven Hedin).
Stockholm: The Sino-Swedish Expedition Publication 21, 1943.