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13.環地中海の音楽文化とシルクロード: 近代ギリシアとオスマン・トルコ佐藤文香

13-1 ラウートとウティ

 ギリシアは、1453年にビザンツ帝国の首府コンスタンティノープルが陥落したのち、四百年近くオスマン帝国の支配下にあった。独立後のギリシア音楽文化の歩みとは、一方では西洋音楽の手法を用いてオスマン・トルコの痕跡を消し去り、他方ではオスマン・トルコの影響とおぼしき要素を、古代ギリシアあるいは中世ビザンツ時代にまでそのルーツを遡ることによって、非オスマン・トルコ起源であると読み替えていく作業の積み重ねにほかならなかった。

 シルクロードに縁の深い楽器を例にとってみよう。ギリシアでこんにち「伝統楽器」として演奏されているものに、「ウティ」と「ラウート」という撥弦楽器がある1【図1】【図2】【図3】。どちらも日本の琵琶の遠い親戚にあたり、祖先は「バルバト」というササン朝ペルシアの楽器である〔第2章参照〕。この楽器は、アラビアでは、共鳴胴の腹面に皮ではなく木が使用されていることから、アラビア語で「木」を意味する「ウード」の名称で広まり、これがイベリア半島経由で西方へ伝播し、ヨーロッパの「リュート」となった。「ウティ」と「ラウート」もまた、ギリシアに伝わったウードに他ならない。


【図1:ウティ】
製作:ディミトリス・ラパクシオス(アテネ)
撮影:佐藤文香(2009年、ディミトリス・ラパクシオス楽器製作工房)


【図2:ポリティコ・ラウート】
製作:ディミトリス・ラパクシオス(2009年、アテネ) 
撮影:佐藤文香(2009年、ディミトリス・ラパクシオス楽器製作工房)  


 【図3:クリティコ・ラウート】
製作:ディミトリス・ラパクシオス(2009年、アテネ)
撮影:佐藤文香(2009年、ディミトリス・ラパクシオス楽器製作工房)

13-2 近代ギリシアの歩みとウティ

 さて、この「ラウート」と「ウティ」だが、前者が1924年のギリシア共和国成立以前から、国内におけるギリシア民謡や民俗舞踊の伴奏に用いられてきた一方で、後者がオスマン古典音楽に由来するギリシア伝統音楽の演奏に欠かすことのできない楽器として受け容れられるようになったのは、ごく最近のことである。

 「ウティ」とは「ウード」のギリシア語名で、構造もウードそのものである。ギリシア国内には二十世紀初頭、小アジア難民によってもたらされ、もっぱらかれらによって演奏された2。小アジア難民とは、トルコとギリシア間でおこなわれた小アジア戦争(1919~1922年)後に締結した住民交換協定(1923年)により、ギリシアへ移住を強いられた旧オスマン帝国領内のギリシア正教徒を指す。難民のなかには、オスマン古典音楽やそこから派生した軽音楽に造詣の深い音楽家も含まれたのだが、かれらが演奏する、「マカーム」3に基づくオスマン古典音楽やそこから派生したポピュラー音楽は、音楽における西欧化を目指すギリシア人有識者にとって、好ましいものではなかった。こうして、小アジア難民の音楽伝統の影響を受けて展開した大衆音楽「レベティカ」からは、平均律化、和声づけにより、「オスマン・トルコ的」要素が「浄化」されていった。マカームから微小音程を取り除き、ギリシア語で「道」を意味する「ドロモス」という名称のもと体系化されたレベティカの使用旋法のなかには、マカームと同じ名称が冠されていても、まったく異なる旋法を指す例もあり、おのずとオスマン・トルコの音楽文化との差異化がはかられた。たとえば、ドロモスについてのギリシアの一般的な教則本では、「ニハーヴァンド・マカーム」ではなく「ニクリーズ・マカーム」が「ニハーヴァンド・ドロモス」とされているのである4。一方の「ラウート」は、可動式のフレット付で、複弦四コースである。祖形は古いタイプのウードとも考えられるが5、確実なのは、遅くとも十九世紀末にはギリシアにみられた、ということである6。つまり、ウティとラウートの間に直接的な縦のつながりはないといえる。どちらもウードとつながりのある楽器であるにもかかわらず、一方はギリシア民謡や民俗舞踊の伴奏に用いられ、もう一方は、二十世紀半ばに衰退し、近年になってオスマン古典音楽に由来するギリシア伝統音楽を演奏するための楽器として受容されるようになったのはなぜか。これは、近現代ギリシアの歩みと密接に関係している。ここで、近現代ギリシアの歴史を概観してみよう。

 ギリシアがオスマン帝国からの独立を承認されたのは1830年のことである。1821年に始まる独立戦争の契機となったのは、ギリシア語話者の正教徒間で「ギリシア人」意識が芽生えたことであった。ところが、新生ギリシア国家には、ギリシア正教の総本山コンスタンティノープル(現イスタンブル)も、ギリシア人富裕層や知識層が多く住むスミルナ(現イズミール)も含まれていなかった。そのため、オスマン帝国領内のギリシア正教徒を「救済」し、旧ビザンツ帝国の版図を回復しようと、ギリシアは領土拡張政策に乗り出す。政策の背後にあった思想は「メガリ・イデア」とよばれ、独立以降のギリシアを方向づけてきた。しかし、小アジア戦争に惨敗し、メガリ・イデアが瓦解、文化的境界線と地理的境界線とが一致したところへ、本土ギリシア人にとって異質文化の担い手である小アジア難民が多数到来したとき、深刻な問題として浮上したのはギリシア・アイデンティティの再考であった。当初、ウティやこれを用いた音楽は、難民を中心に需要があったが、メタクサス将軍が独裁体制(1936~41年)を樹立し、ギリシア音楽文化のあり方に積極的に干渉するようになったのち、この種の音楽伝統は急速に廃れていった。体制は、検閲委員会を設置し、録音する前に音楽を楽譜に書き起こして提出することを義務づけ、また、国営ラジオの放送内容に規制を設けたのである。

13-3 ウティの見直し

 ウティがギリシア伝統音楽演奏に欠かせない楽器として再び注目されるようになるのは、右派の軍事独裁体制(1967~74年)が崩壊したのち、左派の知識層の若者を中心に、であった。きっかけとなった要因のひとつは、西洋の手法を用いて「オスマン・トルコ的」要素を「浄化」する必要があるとかつて考えられていた、古い様式の「レベティカ」が復興したことであった。これが小アジア難民の音楽伝統の見直しへと、さらにはオスマン音楽文化への関心へとつながったのである。そもそも、オスマン帝国下では、異教徒がともにオスマン古典音楽を担っていたのであり、事実、これに貢献した音楽家にはギリシア正教徒も含まれた。たとえば、こうした音楽家にヨルゴス・バジャノス(1900~74年)がいる。彼は、二十世紀初頭にウード奏者としてオスマン帝国下で、帝国崩壊後はトルコで活躍した7。当初、関心の焦点は、こうした音楽家たちによる録音演奏や作品の再発見と再評価にあったが、こうした文脈のなかで、オスマン音楽文化にはビザンツ時代の音楽伝統が保存されている、したがってオスマン古典音楽やその派生音楽はギリシアの「伝統音楽」であるという読み替えがなされていった8。その意味で、独立後のギリシア音楽文化の歩みは、常にオスマン・トルコの影とともにあったといえるが、カリモプルが指摘するように、こうした流れのなかでこんにち、ウティをはじめとする東方起源の楽器に関心をいだく若者たちには、地理的、時代的境界にとらわれることなく、この種の楽器の可能性を追究しようとする姿勢がみられる。

(脚注)
.ウティの共鳴胴は大きく、洋梨を半分に割った形をし、棹は短く、糸倉は棹にほぼ直角をなすように取り付けられており、フレットはない。ギリシアにみられるものは、複弦五コースもしくは六コース(Cf. Daly 1994: 20. Karakasi 1970: 157.)。ラウートはウティよりも幅細の共鳴胴に長めの棹を有し、可動式のフレット付。複弦四コース。ポリティコ・ラウート(コンスタンティノープルのラウート)のように曲頸のものと、クリティコ・ラウート(クレタ島のラウート)のように直頸のものとがある。ギリシア民俗楽器博物館所蔵のウティとラウートについては、下記リンク先で見ることができる。http://www.instruments-museum.gr/products1.php?lang=1&wh=8
.Anoyanakis 1979: 258. Karakasi 1970: 156-7.
.微小音程も重要な構成要素として含む旋法のこと。マカームごとに、音の進行にさまざまな規則がある。
.Payiatis 1992: 63-4. Cf. Mauroeidis 1999: 197; Voulgaris & Vantarakis 2006: 42, 49-50.
.イスラム支配下のスペインのウード奏者ズィルヤーブが九世紀はじめに、日本の琵琶同様四弦であったウードを五弦にしたが、モロッコやアルジェリア、チュニジアでは今も四弦タイプのウードがみられる。また十五世紀はじめまではフレット付のウードも存在した(ファーマー、「ウード」、128頁)。
.Anoyanakis(1979: 210, 213)によれば、十九世紀末には大中小三種類のサイズのラウートが製作されていたが、こんにち、よく見られるラウートは、そのウティの中サイズのもの。
.ヨルゴス・バジャノスの演奏および彼の作品の演奏については、http://wn.com/yorgo_bacanosで聴くことができる。
.この辺の事情については、Kallimopoulou2009に詳しい。

(参考文献)
柘植元一監修 『シルクロードの響き:ペルシア・敦煌・正倉院』 東京:山川出版社、2002年。
ファーマー、H. G. 「ウード」((H. G. Farmer, “ūd”) 水野信男訳、『ニューグローヴ世界音楽大事典』東京:講談社、1994年、第3巻、128頁。
Anoyanakis, Fivos. Greek Folk Musical Instruments. Athens: National Bank of Greece, 1979.
Daly, Ross. Paradosiaka Mousika Organa: Mousika organa apo thn Ellada, Mesi Anatoli, Voreia Afriki, Kentriki Asia kai India [Traditional Musical Instruments: Musical Instruments from Greece, Middle East, Northern Africa, Central Aisa and India]. Dimos Patreon, 1994.
Kallimopoulou, Eleni. Paradosiaka: Music, Meaning and Identity in Modern Greece. Surrey: Ashgate. 2009.
Payiatis, Haralabos. Laikoi Dromoi [Popular Roads]. Athens: Fagotto, 1992.

目次 

  1. 総論
  2. 古代メソポタミアからササン朝ペルシアに至る音楽文化
  3. 古代インドの音楽と楽器
  4. 胡楽の時代:隋・唐の宮廷における西域音楽
  5. 日本と朝鮮に及んだシルクロード音楽文化
  6. 南アジアの宗教音楽:ヒンドゥーとスーフィズム
  7. イスラーム全盛期の西アジアおよび中央アジアの音楽
  8. ウイグル音楽の歴史と現在:十二ムカームを中心に
  9. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:クルグズ
  10. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:トルクメニスタン
  11. 近代西アジアの音楽とヨーロッパ音楽との交渉:トルコを中心に
  12. 環地中海の音楽文化とシルクロード:古代ギリシアとローマ
  13. 環地中海の音楽文化とシルクロード: 近代ギリシアとオスマン・トルコ
  14. 環地中海の音楽文化とシルクロード:イタリアとオスマン・トルコ
  15. 環地中海の音楽文化とシルクロード:セファルド系ユダヤ人音楽家の活動
  16. シルクロード探検史に見る音楽資料
  17. ワールドミュージックとしての新しい「シルクロード音楽」の創出

執筆者一覧  

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