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7.イスラーム全盛期の西アジアおよび中央アジアの音楽柘植元一(東京藝術大学名誉教授)

7-1 イスラーム初期のアラブ音楽

 シルクロードが走る地域の大半はイスラーム世界である。イスラーム教を創始したムハンマドの没後(632)、正統カリフ時代(632-661)にイスラームの旗印をかかげたアラブ人は、東に向かって大規模な遠征を行いササン朝ペルシアを滅亡させ(651)、中央アジアのアムダリアまで到達した。西はシリア、パレスチナ、そしてアフリカ大陸のエジプトにまでその版図を拡大した。

 ムハンマドに啓示が下りる前のアラブ人の社会は、ジャーヒリーヤ(無知)時代と呼ばれ、イスラーム(アッラーに絶対的に服従すること)時代とは明確に区別される。ジャーヒリーヤ時代は多神教、偶像崇拝、ベドウィン的価値観によって特徴づけられるが、この時代のアラブ音楽の歴史は模糊としている。

 イスラーム世界では宗教法に照らしてハラール(合法的)な音楽とハラーム(不法)な音楽とが峻別される。ジャーヒリーヤ時代の音楽は、異教徒の音楽であり、これは無論ハラームとされた。アラブのもっとも古い歌謡の一つフダー(隊商の駱駝追いの歌)や婚礼の歌あるいは泣き歌はハラールであったが、娯楽のための器楽や享楽的な歌謡はマクルーフ(忌避すべき)ないしハラームとされた。しかし、キラーア(聖典の読誦)やアザーン(礼拝の呼びかけ)や宗教的な讃歌や詩歌は、たとえ節を付けて唱えられても「音楽」の範疇には入らない。これは非音楽なのである。

 しかし、音楽の賛否をめぐる宗教的な規制はもとよりイスラーム社会における音楽の不在よりも、むしろ音楽がいかに好まれたかを示唆している。歴代のカリフたちの宮廷生活において音楽は詩とともに不可欠のものであった。派手好みであった第三代カリフのウスマーン(在位656-56)と第四代カリフのアリー(在位656-61)のもとで音楽は学問や芸術とともに擁護された。しかし、楽師の多くは低い階層のアラブ人かペルシア人やギリシア人ら異民族の血を引く者であり、上流のアラブ人は趣味として音楽や詩歌を楽しんだ。

 ウマイヤ朝の成立以降、イスラームの版図はさらに拡大し、東はアム河以東の中央アジアから、西は北アフリカからイベリア半島にまで及んだ。この時期に新しく属州となったペルシアやビザンツの音楽がさかんにアラブ音楽にとりこまれた。

 8世紀半ばにアッバース朝が興りバグダードを都としたが、カリフの宮廷には多くの学者や文人とともに優れた音楽家が集められ、アラブ音楽の黄金時代が築かれた。ペルシア系のイブラーヒーム・アル=モウスィリー(742-804)とイスハーク・アル=モウスィリー(767-850)父子やイブラーヒーム・イブン・アル=マハディー(779-839)らである。

 もう一人の重要な音楽家はズィルヤーブの名で知られるアブール=ハサン・アリー・イブン・ナーフィイ(852没)で、彼はバグダードの音楽様式をイベリア半島のアンダルスの地に移植した人物である。821年コルドバの後ウマイヤ朝の君主アブドッラハマーン二世の宮廷に迎えられ、いわゆるアンダルス楽派の開祖となった。やがて西アラブ世界(マグリブ)の音楽と東アラブ世界(マシュリク)の音楽とは様式を異にするようになる。

 アッバース朝第七代カリフ、アル=マームーン(在位813-33)は学問芸術を奨励し、バグダードにバイト・アル=ヒクマ(知恵の館)を設立したが、ここでギリシア語やシリア語やペルシア語などの文献のアラビア語訳がさかんに行われた。ギリシア語が借用されて、ムスィケー(音楽)はアラビア語では「ムースィーキーmūsīqī」となり、ゲノスは「ジンスjins」となった。音楽の理論的研究はアラビア科学の数学の下に位置づけられた。アル=キンディー(801?-866?)やアル=ファーラービー(870頃-950)の音楽論は、当時のアラブ音楽の実践に即した音律の計算法や音階・旋法・リズム型の体系化を含む。アラブ音楽の音律理論は10世紀のイブン・スィーナー(980-1037)を経て、13世紀のサフィーウッディーン・アル=ウルマウィー(1294没)によって大成された。

 サフィーウッディーンの音階は17不等分音階として知られる。これは13世紀以降の西アジアの音楽の基礎となったが、その音程構成は全音を二つのリンマ(ピュタゴラスの短二度、L)と一つのコンマ(ピュタゴラス・コンマ、C)から成るもの(L+L+C)と定義し、半音は一つリンマと定義する。つまり、全音は平均律の長二度よりも大きく、半音は平均律の短二度よりも小さい。テトラコルド(四音音階。完全四度の枠)は五つのリンマと二つのコンマから成るが、その音程構成は次のようになっている。

 [L+L+C]+[L+L+C]+L(これはリュートの指盤上のツボを思い浮かべれば理解しやすい)。

 二つのテトラコルドに大全音を一つ結合するとオクターヴに到達するが、ここには合計十二のリンマと五つのコンマが一定の順序で並んでいる。サフィーウッディーンはオクターヴ音階をこのように想定すると、当時のアラブ音楽に用いられたさまざまな中立音程を一つの音階上に正確に位置づけられる、と説いたのである。

 西アジアおよび中央アジアの音楽理論の根幹をなすのが、マカームmaqām(旋法)とイーカーアīqāʻ(リズム周期)の概念である。ただし、マカームという音楽用語は13世紀にはまだ用いられていない。サフィーウッディーンは旋法を「シャッドshadd」と「アーワーズāwāz」という用語で呼んでいた。当時の旋法は①アブーサリク、②ブズルク、③ヒジャーズィ-、④フセイニ-、⑤イラーク、⑥イスファハーン、⑦ナワー、⑧ラハーウィー、⑨ラースト、⑩ウッシャーク、⑪ザンクーラ、⑫ズィルアフカンド(以上、十二シャッド)、そして①カルダーニヤ、②カワシュト、③ノウルーズ、④マーヤ、⑤シャハナーズ、⑥サルマク(以上、六アーワーズ)であった。

 音楽用語としてのマカームの初出はクトブッディーン・アッ= シーラーズィー(1236-1311)の音楽論『ドッラトッタージュ(王冠の真珠)』とされる。13世紀以前には一般的に「パルデ parde」というペルシア語が旋法の意味で用いられていた(パルデは元来、「幕」とか「仕切り壁」「分割」そして「フレット」を意味する)。しかし、15世紀になると「マカーム」の語が旋法を指す名称として一般的に定着する。すなわち、アラブ音楽、トルコ音楽、そしてペルシア音楽のしくみは、一口で云えば、マカームのシステムに基づいている。そして、これはイーカーア(トルコ語ではウス-ル)と呼ばれるリズム周期に則って演奏されたのである。

 西アジアと中央アジアのマカーム音楽の大成に貢献したのは、アブドゥルカーディル・〔イブン・ゲイビー〕・アル=マラーギー(1435没)であった。彼はその名が示すとおりアゼルバイジャンのマラーゲ出身の音楽家で音楽理論家であった。彼はティームールとその後継者アル=ハリールおよびシャーロホの宮廷音楽家として生涯の大半をサマルカンドとへラートで過ごした。アブドゥルカーディルは第一に、すぐれた作曲家そして演奏家であった。加えて、彼は音楽理論家としても大きな業績を残した。『ジャーミイ・アル=アルハーン(旋律集成)』(1405)と『マカースィド・アル=アルハーン(旋律の意図)』はペルシア語で書かれたが、15世紀の音楽理論に少なからず影響を及ぼした。

7-2 イスラーム後期:オスマン・トルコの音楽

 今日のトルコ共和国で「トルコ古典音楽」と呼ばれているジャンルは、トルコ語では「オスマン音楽」とも呼ばれる。これはオスマン帝国時代(1300頃~1922)のトルコ音楽という意味だが、実際には16世紀後半からその様式的な性格を鮮明にしはじめ、18世紀にその最盛期をむかえた。一口で云えば、マカームに基づいたイスラーム前期のアラブ音楽を、オスマン・トルコ独自の様式に発展させたものだが、数多くの作曲家の作品が楽譜に記されて保存されていることと、実践に則した音組織と旋法の理論的な記述が存在するのがその特徴である。

 オスマン音楽のマカームの数は150ほど数えられ、その中の110が今日実際に用いられる。理論的に単純な音程構造のマカームと、複合的な音程構造のマカームの二つのカテゴリーに大別されるが、前者には①ラスト、②チャルギャハ、③ヒュセイニ、④ネヴァ、⑤プセリク、⑥ウッシャク、⑦スズィナク、⑧ヒジャズ、⑨ヒュマユン、⑩ウッザル、⑪カルジュガル、⑫ズィルギュレの十二旋法が含まれる。後者の代表的な例としてヒュッザムが挙げられる。

 オスマン音楽の代表的なジャンルを三つ挙げるなら、メヴレヴィー教団のスーフィー典礼音楽、世俗的なオスマン宮廷音楽、そしてイェニチェリ(スルタンの親衛歩兵軍団)の軍楽であろう。いずれもマカームに基づいていることは云うまでもない。

 オスマン音楽の典型はムラッバアやキャールなどオスマン・トルコ語の詩による格調の高い歌曲やセマーイーと呼ばれるスーフィーの典礼舞曲を組み合わせたファスルと呼ばれる重厚な形式である。より軽快なシャルクと呼ばれる歌謡曲の形式は17世紀中葉に創り出された。メヴレヴィー教団の典礼に用いられる音楽にも、アーインと呼ばれる組曲形式が生まれた。ムスタファ・デデ(1683没)、ブフリザーデ・ウトリ(1712没)、ナーイ・オスマン・デデ(1652-1730らの作品は今日もしばしば演奏される。モルダヴィアの王子カンテミール(1673―1723)の名もオスマン音楽史上で忘れることができない。自身優れたタンブール奏者で、ペシュレヴの作曲家でもあったが、彼の最大の貢献は記譜法の考案であり、数多のオスマン音楽がこの楽譜に書きとどめられた。

 与えられたマカームで即興的に独奏(声楽でも行われる)するタクスィームと呼ばれる形式も17世紀前半にトルコで創り出された。オスマン音楽はイスタンブールをはじめイズミールやテサロニキなどの都市でおこなわれていたが、やがてオスマン・トルコの支配下に入ったアラブ(とりわけ、東アラブ世界の)の音楽にも、少なからず影響を与えた。オスマン・トルコ様式の音楽がカイロやバグダードでも奏でられるようになり、オスマン帝国の都イスタンブールは20世紀初めまで、アラブ=トルコ音楽のメッカの様相を呈していた。

7-3 イスラーム後期:イランと中央アジア

 今日のイランの古典音楽はカージャール朝(1796-1925)の宮廷楽師アリーアクバル・ファラーハーニーの流れを汲むものである。その息子の一人ミルザー・アブドッラー(1845頃-1918)は、これを七つのダストガーハ(旋法組織)に体系づけた。その七つとは、①マーフール、②シュール、③チャハールガーハ、④ナヴァー、⑤ホマーユーン、⑥ラーストパンジュガーハ、⑦セガーハである。ミルザー・アブドッラーの伝承を記録したメヘディーゴリー・ヘダーヤト(1863-1955)は、その著書『マジュマオル= アドヴァール(楽理集成)』では「ダストガーハ」と「マカーム」の語を併用している。すなわち、ヘダーヤトはマーフールのダストガーハを「第一マカーム」、シュールのダストガーハを「第二マカーム」、チャハールガーハのダストガーハを「第三マカーム」と呼んだ。

 イラン音楽の近代化の父とされるアリーナギー・ヴァズィーリー(1887-1979)は、その『ムースィーキー・ナザリー(音楽通論)』(1934)の中で、イランの古典音楽には七つのダストガーハと五つのナグメ、合計12旋法が存在すると説いた。「ナグメ」とは元来「楽音とか節まわし」を意味する。五つのナグメの名称は①アブーアター、②バヤーテ・トルク、③アフシャーリー、④ダシュティー(以上四つはシュールの音階にもとづく)、および⑤バヤーテ・エスファハーン(ホマーユーンと音階を共有する)である。

 この「ダストガーハ」というペルシア語の名称はイラン独自のものだが、類似の音楽システムはイランをとりまく近隣諸国でもひろく見られる。アラブ諸国やトルコのマカーム、イラクのイラーキー・マカーム、アゼルバイジャンのムガーム、ウズベクやタジクのマコーム、そしてウイグルのムカームがそれである。(ちなみに、この「ムガーム」も「マコーム」も「ムカーム」も、すべて同一のアラビア語maqāmの変形である。)要するに、イランのダストガーハも、巨視的に見れば、西アジア・中央アジアの広義の「マカーム」の一形態に他ならない。そして、このマカームこそ東は中国の新疆から西はモロッコに至る広大な地域の音楽にあまねく見られるイスラーム文化圏の音楽システムなのである。

目次 

  1. 総論
  2. 古代メソポタミアからササン朝ペルシアに至る音楽文化
  3. 古代インドの音楽と楽器
  4. 胡楽の時代:隋・唐の宮廷における西域音楽
  5. 日本と朝鮮に及んだシルクロード音楽文化
  6. 南アジアの宗教音楽:ヒンドゥーとスーフィズム
  7. イスラーム全盛期の西アジアおよび中央アジアの音楽
  8. ウイグル音楽の歴史と現在:十二ムカームを中心に
  9. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:クルグズ
  10. 中央アジア遊牧民族の音楽と語りの伝統:トルクメニスタン
  11. 近代西アジアの音楽とヨーロッパ音楽との交渉:トルコを中心に
  12. 環地中海の音楽文化とシルクロード:古代ギリシアとローマ
  13. 環地中海の音楽文化とシルクロード: 近代ギリシアとオスマン・トルコ
  14. 環地中海の音楽文化とシルクロード:イタリアとオスマン・トルコ
  15. 環地中海の音楽文化とシルクロード:セファルド系ユダヤ人音楽家の活動
  16. シルクロード探検史に見る音楽資料
  17. ワールドミュージックとしての新しい「シルクロード音楽」の創出

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